飯田久恒
[Wikipedia|▼Menu]

.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}飯田(いいだ) 久恒(ひさつね)

生誕1869年11月13日
明治2年10月10日
死没 (1956-10-15) 1956年10月15日(86歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1892年 - 1934年
最終階級 海軍中将
墓所青山霊園
テンプレートを表示

飯田 久恒(いいだ ひさつね、1869年11月13日明治2年10月10日) - 1956年昭和31年)10月15日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将
経歴

飯田久徴の長男として生まれる。攻玉社を経て、1892年7月、海軍兵学校19期)卒業。少尉候補生として「愛宕」に乗り組み日清戦争に出征した。1894年9月に海軍少尉任官。砲術練習所を卒業し、「鳥海分隊長、「扶桑」航海長、海軍教育本部第1部、第2艦隊参謀などを歴任。日露戦争では参謀として「磐手」乗り組みで出征した。その後負傷・後送された松村菊勇の補充として「三笠」へ移り、さらに小倉寛一郎の「三笠」着任に伴って軍令部に異動した谷口尚真の後任として「浪速」へ移り蔚山沖海戦に参加、そして小倉の負傷・後送により再び「三笠」に移り日本海海戦に参加、日本海海戦で戦傷を受けている。

日露戦争のため退学した海軍大学校に復校し、1906年7月、同校(将校科甲種4期)を卒業。軍令部参謀、イギリス駐在、「筑波」副長、軍令部参謀兼海大教官、兼参謀本部員、「新高艦長第3艦隊参謀長、「笠置」艦長、海大教頭、「吾妻」「薩摩」各艦長などを歴任。1917年12月、海軍少将に進級。さらに、イギリス大使館付武官、第4戦隊司令官などを経て、1921年12月、海軍中将となった。以後、第3戦隊司令官、馬公要港部司令官、将官会議議員を務め、1924年2月、予備役に編入され、1934年10月に退役した。
栄典
位階


1894年(明治27年)10月22日 - 正八位[1]

1898年(明治31年)3月8日 - 従七位[2]

1903年(明治36年)11月10日 - 従六位[3]

1907年(明治40年)11月30日 - 正六位[4]

1913年(大正2年)2月10日 - 従五位[5]

1918年(大正7年)1月30日 - 正五位[6]

1921年(大正10年)12月28日 - 従四位[7]

勲章等


1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等単光旭日章[8]

1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[9]

1920年(大正9年)9月7日 - 旭日重光章[10]

脚注[脚注の使い方]^ 『官報』第3397号「叙任及辞令」1894年10月23日。
^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
^ 『官報』第6109号「叙任及辞令」1903年11月11日。
^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
^ 『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
^ 『官報』第2824号「叙任及辞令」1921年12月29日。
^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。

参考文献

秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。

外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。

典拠管理データベース
全般

VIAF

国立図書館

日本


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:11 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef