飯村豊
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いいむら ゆたか
飯村 豊

生誕 (1946-10-16) 1946年10月16日(77歳)
東京都世田谷区
国籍 日本
出身校東京大学教養学部中退
職業外交官
家族祖父・飯村穣総力戦研究所所長)
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飯村 豊(いいむら ゆたか、1946年10月16日 - )は、日本の外交官。元駐フランス大使兼駐アンドラ大使兼駐モナコ大使。
来歴・人物

東京都世田谷区出身[1]。東京教育大学附属駒場高等学校(現:筑波大学附属駒場高等学校)を経て、東京大学教養学部に入学。



外務省入省

1968年東京大学在学中に外交官試験に合格したことめ、大学4年次に中退し、1969年に外務省入省した。同期に谷内正太郎田中均遠藤乙彦重家俊範小町恭士(駐蘭大使、官房長)、堀村隆彦(駐墨大使、中南米局長)、松井靖夫(駐コスタリカ大使)、高橋恒一(国連行財政改革担当大使)などがいる。

フランスで在外研修を受けたいわゆるフレンチ・スクール出身[2]欧亜局審議官・経済協力局長等を歴任。

2001年1月1日、読売新聞が一面で、外務省の機密費流用疑惑を報道。同月、同省職員の松尾克俊(要人外国訪問支援室長)が業務上横領容疑で告発され、懲戒免職となった[2][3]。続いて2月3日、外務省大臣官房長の阿部知之が過労で入院した[3]
外務省大臣官房長就任

2001年2月16日に飯村は、過労入院した阿部の後任として、同官房長に就任(経済協力局長と兼任)[4][5][6]外務省機密費流用事件の調査、対応にあたった。松尾は3月11日に詐欺罪で逮捕され、就任前時点の外務省幹部たちは減給処分などを受けた。
田中真紀子との対立

同年4月26日、小泉内閣が成立。外相に就任した田中眞紀子は就任後の記者会見で「外務省は伏魔殿」「再処分が必要」と述べ、幹部の綱紀粛正を予告した。5月1日、飯村は田中に面談を申し込み、幹部人事は官邸の了承を得る必要があることと、一事不再理の原則に基づいて松尾事件の再処分は考えられないことの2点を伝えた。田中は上村司秘書官に「ブラックリストを持ってらっしゃい」と命じ、松尾事件の処分者リストを手元に取り寄せ、歴代次官、官房長の名前の横に「解任」の文字を書き込んでいった。飯村が「大臣、法律に則っておやりになる必要があります」と述べると、田中は「出て行け」と一喝した。飯村は大臣室への立ち入りを禁止される[7]。その後、田中の「謝罪すれば出禁処分を解く」との言葉が同僚を通じて伝えられるが、飯村は「自分は悪いことをしているわけではないので謝るつもりはない」と述べ、田中の申出をはねのけた[4]

外務省幹部は田中外相との対決派と融和派に割れた。対決派だった飯村は「官房勤務雑感」(後述)で、田中との共存を志向する一派を「ヴィシー派」と呼び、こう綴った。「省内のヴィシー派の考え方は理解できない。どうして黙って彼女の発言を聞いているのであろうか。彼女を通して自分たちの人事を実現しようとしているのだろうか」[4]

飯村は「最大の焦点は、次官の後任を外相に直言できる人にできるかだった。首相官邸の決断で何とか実現した」とのちに明かしているが[8]川島裕次官の後任は外務審議官野上義二が就くことが決まった[9]

8月10日、機密費流用事件当時の次官であった斎藤邦彦国際協力事業団総裁、林貞行駐英大使、柳井俊二駐米大使川島裕次官とともに官房?を更迭された[10]。官房付となった飯村はこの日の辞令交付式を欠席。携帯電話の電源を切って連絡も拒み、最後の抵抗を見せた[11]。これに対し田中は怒りをにじませ、9月1日、外務省は、飯村を改革担当の官房審議官に二段階降格させる人事を発令した[12]
田中真紀子更迭後

一連の騒動の後、さらに田中真紀子も2002年1月30日に外相を更迭された。同年6月、飯村は外務省から記録を残すように言われ、「官房勤務雑感」と題した21ページにわたる文書を作成した。同文書は、「田中眞紀子事件」を教訓として活かすために、歴代外務次官などの間で受け継がれることとなった[4][7]


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