飯岡助五郎
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飯岡 助五郎(いいおか すけごろう、寛政4年(1792年) - 安政6年4月14日[1]1859年5月16日))は、日本の侠客。本名は石渡助五郎。
生涯

寛政4年、相模国公郷村山崎(現在の神奈川県横須賀市三春町)で半農半漁を営む石渡助右衛門の長男として生まれる[2]講談では、助五郎は遠州榛原郡相良藩田沼意次に仕えた家臣・青木源内の一子で本名を助之丞と称していた武家階級の出身としているが、これは助五郎が晩年に講釈師の神田伯童子を江戸から呼んで自身を過大に宣伝したフィクションの可能性が高いと言われている[3]

文化7年(1807年)、相模国に地方巡業に来た友綱部屋の親方・友綱良助に大力を見出され、懇意にしていた名主・永島庄兵衛に相談して自身の名前を公郷村の人別帳から抹消した後、友綱部屋に入門し、相撲取りの道を歩む[4]。しかし、親方の良助が急死したことで1年も経たず力士になる夢をあきらめて廃業[4]。同年、当時地引き網で大漁景気に沸いていた九十九里浜に流れて、上総国作田浜の網元・文五郎の漁夫となる[5]。更に文五郎死去の後は、鰯漁の豊漁地である下総国飯岡(現在の千葉県旭市飯岡)に出稼ぎに出て、この地に定着した[6]。相撲の修業時代に磨きをかけた大力で、飯岡の玉崎明神祭礼の奉納相撲で名前を売り[7]、この地に流れ着いて横暴を働くやくざ者を叩きのめして男を上げて、当時銚子から飯岡にかけて広大な縄張りを持っていた銚子の五郎蔵の代貸となった[8]。更に文政5年(1822年)には五郎蔵から飯岡一帯の縄張りを譲り受け、正業である飯岡の網元の事業も成功させて、名実共に房総半島の大親分となる[9]。飯岡の漁港を整備する事業にも着手し、台風や大時化で漁船が頻繁に遭難し、飯岡の成人男子人口の減少が危ぶまれた際には、生まれ故郷の公郷村や三浦半島一帯から漁師の二男や三男を大量に移住させ、また護岸工事にも積極的に取り組むなど、飯岡の復興にも尽力した[10]

この頃、利根川流域の笹川(現在の千葉県香取郡東庄町)に勢力を持つ15歳年下の笹川繁蔵と知り合う。初めのうちはやはり相撲取り上がりである繁蔵との関係は極めて良好だったが[11]、やがて関東取締出役制度が整備されて助五郎が銚子飯沼陣屋から関八州見回り役人を道案内するために十手取縄を託され岡っ引になると[12][注 1]、両者の間は徐々に険悪になっていく[13][注 2]。繁蔵の勢力が拡大して助五郎の縄張りと隣接するようになると、両者の子分たちによる抗争が頻繁に発生し、両者の縄張り内にある35村の村役人が関八州見回り役人に事態の解決を訴え出た[14]。そして遂に天保15年(1844年)、十手を預かる助五郎に対して繁蔵逮捕の命令が下される。助五郎は子分20数名[15](笹川方によれば約50名の説もあり[16])を引き連れて、同年8月6日に繁蔵逮捕に赴くが、事前に助五郎の襲撃を察知した繁蔵方の奇策を用いた反撃に遭い、笹川方の死者は用心棒の平手造酒一名[17]、飯岡方は8名を失った[18](大利根河原の決闘)。

この逮捕失敗に面目を潰された幕府により助五郎は入牢という屈辱を味わう[19]。一方、繁蔵は逮捕を免れるために逃走して奥州各地を旅していたが、弘化4年(1847年)7月4日、故郷に戻ったところを、助五郎の子分である堺屋与助、三浦屋孫次郎、成田の甚蔵の3名に闇打ちされて絶命した[20]。大黒柱を失った笹川一家は飯岡一家への復讐に奔走するが、関八州捕吏の助けを借りた助五郎一家に次第に追い詰められていき、嘉永2年(1849年)、繁蔵の跡を継いだ勢力富五郎が東庄金毘羅山で52日間、役人と飯岡一家に包囲されて自殺したのを最後に消滅した[21][注 3]

その翌年、嘉永3年(1850年)には宝井琴凌により嘉永版『天保水滸伝』がまとめられ[22]、繁蔵は美青年で悲劇の若親分、助五郎は悪知恵をはたらかせ権力を振りかざして繁蔵を亡き者にする悪親分という図式が全国に広まることとなった[23]。しかし、晩年の助五郎は近所の子供たちから「川端(助五郎の住居があった地名)のおじいさん」と呼ばれて親しまれる好々爺だったという[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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