飯富虎昌
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 凡例飯富 虎昌
甲越勇將傳武田家廾四將:飫富兵部少輔虎昌(歌川国芳作)
時代戦国時代
生誕永正元年(1504年
死没永禄8年10月15日[1]1565年11月7日[2]
別名甲山の猛虎(渾名)
戒名光山道円禅定門[1]
墓所山梨県甲斐市亀沢の天沢寺
官位兵部少輔[3]
主君武田信虎信玄
氏族飯富氏甲斐源氏
父母父:飯富道悦あるいは源四郎[3]
兄弟虎昌、山県昌景[4]
子古屋昌時、左京亮(藤蔵)
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飯富 虎昌(おぶ とらまさ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の重臣。

武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃国佐久郡内山城を領した。信虎追放後は、信玄に仕えた。信玄の信任厚く、嫡男武田義信の傅役や赤備えを率いる大任を務めたが、義信事件に連座し、切腹させられた。名は虎昌とされるが、義信側近が連署した「二宮祭礼帳」にその名は見当たらず、検討の余地がある[3]
生涯
信虎時代

飯富氏甲斐源氏の一族で、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言われる。別説に古代の多氏の末裔説がある。戦国時代の甲斐国では武田信虎家臣に飯富道悦がおり、『勝山記』によれば永正12年(1515年)10月17日に道閲は西郡の国人・大井信達との戦いにおいて子息とみられる「源四郎」と共に戦死している。この飯富源四郎が虎昌・山県昌景兄弟の父親にあたると考えられている。

永正元年(1504年)に生まれたとされているが、生年には諸説があって定かではない。出身地は飯富村(現在の山梨県南巨摩郡身延町飯富)と伝わっている。

享禄4年(1531年)、今井信元栗原兵庫らと共に信虎に反旗を翻したが、敗れて降参し、許されたのちは信虎に臣従した[3]。天文7年(1538年)にも諏訪頼満村上義清の連合軍と戦い、このとき寡兵であるにもかかわらず、数で勝る連合軍を打ち破り、自らは首級97を挙げるという軍功を挙げたとまでされている。

天文10年(1541年)、武田家宿老であり有力国人であった板垣信方甘利虎泰らと共に信虎の嫡男・晴信を擁立して信虎を駿河に追放し[3][5]、以後は武田家の宿老として晴信をよく支えた。
信玄時代

天文17年(1548年)、上田原の戦いで板垣信方と甘利虎泰が戦死した後は、武田軍団の中核となって信玄を支えた。

軍事面では常に最前線に立ち、天文22年(1553年)に自らが守備する内山城を長尾景虎(上杉謙信)・村上義清の軍8000に囲まれた時には、僅か800の手勢で撃退した。また、『高白斎記』における同年の記述に「八月晦日甲辰飯富室カノ本城ヘ移ル」があり[6]室賀城(現・長野県上田市)へ入ったことがわかる[7]。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、妻女山攻撃の別働隊の大将を務めるなど柱石として武田氏躍進に尽力すると共に、信玄の嫡男・義信の傅役(後見人)に任命されるなど、武田氏随一の宿老として重きを成した。
最期

甲陽軍鑑』に拠れば、義信と信玄父子の仲は決して良好なものではなかったとされる。ただし、永禄6年(1563年) 信玄と義信の連名で、甲斐国二宮である美和神社に必勝祈願と子孫繁栄を祈願して和歌が綴った『板絵着色三十六歌仙図[8]』が奉納されており、この時期の信玄と義信の親子関係は良好であったと推測される。対今川氏の方針をめぐって父子の間で対立を深めると、虎昌は義信を担いで謀反を企んだとして捕らえられ[9]、永禄8年(1565年)10月15日、その責任を取らされる形で自害した[1]。享年62。この事について、信玄が「飯富虎昌が我々の仲(信玄と義信)を引き裂こうとする密謀が発覚した」「義信との親子関係に問題はない」という趣旨の手紙を小幡源五郎に送ったとされている[10]

虎昌の処刑日について、2001年には平山優が永禄8年9月 - 10月の範囲に推定し[11]2006年には丸島和洋が高野山成慶院『甲斐国供養帳』の記載から命日を永禄8年10月15日に特定した[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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