飯塚高史
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飯塚 高史
Takashi Iizuka
2017年
プロフィール
リングネーム飯塚 高史
飯塚 孝之
本名飯塚 孝之
ニックネームクレイジー坊主
怨念坊主
狂乱のアイアンフィンガー
裏切りのブリザード
鉄血の処刑人
デスマッチの鬼
魔性のスリーパー
寡黙な闘志
スナイパー
身長181cm
体重107kg
誕生日 (1966-08-02) 1966年8月2日(57歳)
出身地 日本北海道室蘭市
所属新日本プロレス
スポーツ歴サンボ
バスケットボール
トレーナータイチ
山本小鉄
山崎一夫
木戸修
デビュー1986年11月2日
引退2019年2月21日
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飯塚 高史(いいづか たかし、本名および旧リングネーム:飯塚 孝之(いいづか たかゆき)、1966年8月2日 - )は、日本の元男性プロレスラー北海道室蘭市出身。血液型B型。最終所属新日本プロレス
来歴

北海道室蘭東高等学校時代はバスケットボール部に所属していた。当時のニックネームは「ハルク」だった。入門は1985年5月、1986年11月2日で野上彰(現:AKIRA)を相手にデビューした。若手時代の1989年、馳浩と共にグルジアでサンボ修行を行っており、グラウンドレスリングの技術力が非常に高く、道場でコーチを務めていた時期もあった。また、その技術を買われてパンクラスのリングでは鈴木みのると「キャッチレスリング」(打撃無しルール)で対戦している。

海外遠征からの帰国時、闘魂三銃士、馳、佐々木健介の5人にシングル戦を要求するマイクパフォーマンスをリング上で行い、エル・サムライおよび野上彰との3人で「新世代闘魂トリオ」という形で売り出されたが、希望は通らず併せて飯塚の性格の地味さもあってトップ戦線に割って入ることができなかった。なお健介は後にプロレス雑誌の飯塚との対談で、このシングル戦要求に応えなかった理由を、「同い年の同年デビューなのに、短期サンボ修行、長州力と組んでのIWGPタッグ王座戴冠、ドラゴンボンバーズ、お膳立ての整った海外武者修行という、エリートコースに乗った流れが気に食わなかったから」と述べている。

この後も野上との「J・J・JACKS」、山崎一夫永田裕志木戸修との「山崎隊」などユニットの形でチャンスを与えられるが生かすことは出来ず、「隠れた実力派」と称される中堅選手の位置に甘んじていた。

1999年1月4日、東京ドームで行われた小川直也橋本真也戦における試合後のリング内外における乱闘で、小川のセコンドについていた村上和成に対し一時昏睡状態に陥るほどのダメージを負わせた張本人とされる(これが原因で、村上は一時執拗に飯塚の首を狙っていた)。

2000年1月4日、橋本とのタッグで小川・村上組と対決。橋本を馬乗りパンチで攻める小川をドロップキックで駆逐するなど大活躍し、最後はスリーパーホールドで村上をKOした。この一戦がきっかけで一躍大ブレイクし、決め技となったスリーパーは前述のように飯塚の代名詞となった。4月7日にはシングルでも村上からスリーパーで勝利[1]。すると、7月20日に健介の持つIWGPヘビー級王座に挑戦。試合には敗れるものの、その後のG1 CLIMAXで永田と大会中ベストバウトと呼ばれる試合を展開。G1 TAG LEAGUEでは永田と組んで初優勝と、飯塚にとって2000年は非常に実りの多い年であった。

しかし、2001年長井満也との試合で首を負傷し長期欠場を余儀なくされた[2]

その後、トップ戦線との関わりは無く光が当たる事はなかったものの2008年、復帰してG・B・H勢に袋だたきに遭った天山広吉を助け、タッグ共闘を持ちかけた。最初は冷たくあしらわれていたが、G・B・Hのイス攻撃から身を挺して天山を守る等の捨て身の救助を行い、気持ちが通じて友情タッグを結成した[2]
ヒール転向観客席を徘徊する飯塚。

2008年4月27日、飯塚は天山との同タッグで真壁刀義矢野通組が保持するIWGPタッグ王座に挑戦した。ところが、試合終盤で飯塚は突如天山をスリーパーホールドで締め上げ、真壁・矢野の王者組をアシストした。飯塚は試合後もリング上でG・B・H勢とともに天山を痛めつけ、自らヒール転向を宣言しG・B・H入りを果たす[2]。5月2日の天山戦では頭をスキンヘッドにした容姿と化した。また、この頃から飯塚の代名詞とも言われる「アイアン・フィンガー・フロム・ヘル」を使用し、当初は全く喋らないギミックでその不気味さを際立たせていた。稀に喋る機会もあったが、いつしか会話もままならず入場時には観客席を破壊する狂乱ぶりを発揮している。

後のインタビューで飯塚は、「善良だったころの飯塚高史の魂は等々力渓谷のほこらに封印したんだよ」[3]と語っている。

7月8日に天山とランバージャック・デスマッチで対戦を行い、天山のアナコンダバイスで敗北を喫するも飯塚はその後のシリーズでも幾度となく天山を襲撃した。10月13日両国大会で天山と今度はチェーン・デスマッチで激突、最後はチェーンで天山の首を締め上げレフェリーストップ勝ちを収めた。

2009年、3月に開催されたNEW JAPAN CUPで遺恨が芽生えた青義軍の永田に標的を変更、4月5日にチェーン・デスマッチを敢行してレフェリーストップで永田から勝利を収めた。


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