飯塚敏子
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いいづか としこ
飯塚 敏子
戦前のポートレート
生年月日 (1914-06-08) 1914年6月8日
没年月日 (1991-12-14) 1991年12月14日(77歳没)
出生地 日本 埼玉県大里郡武川村明戸(現・深谷市
職業女優
ジャンル劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー
活動期間1931年 - 1949年
著名な家族坂東好太郎 (夫)
二代目坂東吉彌 (実子)
坂東彌十郎 (継子[1]
主な作品
『投げ節弥之助』
巷説 濡れつばめ
鯉名の銀平
朧夜の女
『月夜鴉』
『団十郎三代』
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飯塚 敏子(いいづか としこ、1914年6月8日 - 1991年12月14日)は、日本女優。本名・本間 敏子(旧姓・飯塚)[2]

前の松竹時代劇を代表する女優の一人である。
来歴

1914年6月8日埼玉県大里郡武川村明戸(現・深谷市)に生まれる[2]。生後間もなく、東京市芝区新橋(現・東京都港区新橋)にて「新橋旅館」を経営していた実家に移る[2]。従って、現役時代の俳優名鑑等では、「東京生まれ」と書かれた物も多い[3][4]。小学校の頃から、岡安喜代八について三味線尺八を学ぶ[2]1927年文化学院女学部に入学[2]。同校の先輩に夏川静枝入江たか子伊達里子などがいる[2]。家庭の事情により同校を3年で辞め、家業を手伝っていたが、1930年に雑誌「婦人公論」主催の美人投票に当選する[2]。これをきっかけに、同年11月付で松竹蒲田撮影所に入社する[2]十五代目市村羽左衛門の推薦とする資料もある[3])。

1931年2月の小津安二郎監督の『淑女と髯』で、主役の岡田時彦の相手役に抜擢され、女優デビュー[2]。理知的な美貌で注目され、斎藤寅次郎監督『この穴を見よ』、小川正監督『真夜中商売』などの蒲田名物のナンセンス喜劇のヒロインをつとめた他、上山草人主演の大作映画『愛よ人類と共にあれ』で助演[2]。しかし、和服と日本髪が似合うことから、1931年8月に松竹下加茂に移籍[2]。活動の重点を、現代劇から時代劇に移すことになる。以後、『刀の中の父』で高田浩吉の相手役をつとめたのを皮切りに、犬塚稔監督『女難の与右衛門』では、林長二郎と共演、続く二川文太郎監督『投げ節弥之助』前後編でも、長二郎の相手役をつとめる[2]。『投げ節?』では、当時17歳とは思えない成熟した色気と情熱的な演技を見せ、雑誌「キネマ旬報」の批評でもその演技は絶賛された[2]。翌1932年の正月映画『弥次喜多・美人騒動』で林・高田の2大スターと共演し、準幹部に昇格[2]柳さく子千早晶子らの先輩を押え、実質的な下加茂ナンバー1女優の地位を確立する[2]

前年12月、十三代目守田勘彌の子で、歌舞伎界の新進・坂東好太郎が下加茂入りすると、そのデビュー作『世直し大明神』(井上金太郎監督、1932年2月)で共演[2]。以後も、広瀬五郎監督『鬼火』前後編、 秋山耕作監督『甲州入墨』、同『忠治と三代太郎』などの作品で相手役をつとめ、若い坂東・飯塚のコンビは林長二郎に迫る人気を集めるようになる[2]。また、同じ1932年秋、日活太秦撮影所員・永田雅一から、破格の条件で引き抜き工作を受ける。彼女も一時その気になり、東京の実家で母と相談した言われるが、松竹幹部の引き止めにより結局転社を思いとどまる[2]。当時の人気の高さを物語るエピソードの一つである。

1933年1月、幹部に昇格[2]。この年は林長二郎・高田浩吉・坂東好太郎の相手役として年間20本に出演、長二郎とは冬島泰三監督『刺青判官』3部作、衣笠貞之助監督『鯉名の銀平』他7本、高田とは『江戸借春譜』他2本、そして好太郎とは『お馴染 一心太助』、『巷説 濡れつばめ』、『此村大吉』、『鴛鴦街道』他9本でコンビを組む[2]。特に『巷説 濡れつばめ』は、市丸による主題歌「濡れつばめ」とともにヒットし、さらにこの頃から主演2人のロマンスが囁かれるようになる[2]。翌1934年は下加茂での出演作13本のうち実に8本が好太郎との共演で、『夜襲本能寺』、『心中火取虫』、『愁風宴』前後編などでコンビを組んだが、あまりの忙しさからか『夜襲本能寺』撮影中に胃痙攣で倒れ、さらに急性盲腸炎腹膜炎を併発、緊急手術で命を取り留めるというアクシデントもあった[2]。また、この年長二郎とは『沓掛時次郎』、高田とは大曾根辰夫監督『次郎吉格子』他3本で共演した[2]

1935年も、『血煙荒神山』、『蹴手繰り音頭』など、出演した11本のうち8本が好太郎の相手役であった[2]。そして同年8月、好太郎と結婚する[2]。翌1936年五所平之助監督に呼ばれ、松竹大船(この年蒲田から移転)で現代劇『朧夜の女』に主演。芸者上がりの女給を好演した[2]。翌1937年、出産と育児のために松竹を退社[2]。以後は同年の林長二郎の東宝移籍により、名実ともに下加茂の看板となった夫を影で支える側になり、映画出演も散発的になる[2]。それでも、高田浩吉と共演した1939年の井上金太郎監督『月夜鴉』では、三味線の女師匠を熱演して好評を博し、翌1940年に続編『新月夜鴉』が作られた[2]

第2次世界大戦中は、映画の製作本数の減少もあり、夫婦で「坂東好太郎一座」を結成し、東京・関西などを巡演[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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