食品サンプル
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この項目では、飲食店などに陳列される料理の模型について説明しています。無料提供などで配られるサンプルについては「試供品」をご覧ください。
飲食店で利用される食品サンプル。

食品サンプル(しょくひんサンプル)は、飲食店の店頭あるいは店内に陳列される料理模型。可塑性のある腐敗しない材料(合成樹脂など)を主原料として作られ、商品の細部を視覚的に説明するとともに、商品名や価格を同時に提示することによってメニューの一部または全部の役割を果たす。大正時代から昭和初期にかけての日本で考案された表現手法である。

業界団体等がなく共通の定義も存在しておらず[1]、「食品サンプル」という呼称は戦後になって業者の自称や他称でそう呼ばれるようになった。料理模型や食品模型とも呼ばれる場合もある。主に業務用として制作されていたが、近年は一般向けにも販売され始めており、模型やアクセサリー等として拡がり始めている。
概要

初期の食品サンプルは実物を寒天で型取りしてを流し込んで作成された。蝋はあらかじめ絵の具を溶かして色付けしたものが用いられ、製品補強を行うために脱脂綿による裏打ちを行った後、表面によりリアルな彩色を施す。こうした一連の作業は手作業で行われているため、実際に飲食店で提供される特徴(皿、盛り付け、量など)に近い個々の食品サンプルの製作が行われた。

食品サンプルが、高い集客能力を持ったイメージ喚起のための装置として一般に広く認知されるようになると、それに伴って食品サンプル生産業者に対する受注が増加した。

1970年代頃に入ると、原材料は溶けやすく壊れやすいといった欠点を持つ蝋製から合成樹脂へと代わり、生産の簡略化を目的とした合成樹脂用の金型などが開発され、より緻密でリアルな食品サンプルが製作されるようになった。竹内繁春が考案したとされる、フォークが宙に浮いたスパゲティの食品サンプル[2]

食品サンプルはリアルであると同時に、非現実性を兼ね備えている場合がある。いわゆる「瞬間の表現」であり、代表的なものでは土産物店などに見られる饅頭類に切れ込みを入れて中の食材を明確化したもの、麺類を提供する飲食店において麺を箸やフォークで持ち上げて動的表現を加えたものなどがある。

現代においては、食品売場や飲食店の販促ツールとしての役目だけでなく、日本国外からの観光客への土産物、芸術品や玩具としての利用も広まっている。キーホルダーや携帯電話のストラップにできる小型版も作られるようになった。東京で飲食店関連用品の販売店が多く集まる合羽橋道具街や東京ソラマチ、横浜市、さらに関西地方などでは、食品サンプルを訪日外国人を含む一般消費者に販売したり、製作を体験できる店もある[3][4]。海外では「フード・サンプル」の他に「フェイク・フード」と呼ばれている。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}2010年以降[要出典]、インターネットの普及により情報が集めやすくなったことで、審美的・技巧的な側面から食品サンプルを嗜好する層が現れた。ネット上の通信販売では、製作キットの販売なども行われるようになっている。
歴史

食品サンプルについては、その製作技術の進歩に関して詳細な記録が残されていない[5]

発祥に関しては、日本で初めて食品模型製作の事業化に成功させ、今日広く普及している食品サンプルの基礎を築いた岩崎瀧三を嚆矢とするもの[6][7][8]、食堂として初めて食品サンプルを視覚的効果を持たせたメニューとして陳列した百貨店白木屋の飲食物見本を製作した須藤勉をその始まりとするもの[9][10]、京都の模型製造者の土田兎四郎、西尾惣次郎が作ったとするもの[11]、などの説がある。彼らは記録上からは因果関係が認められておらず、同時多発的に発生した事象であると考えられている[12]
最初の食品サンプル
保健食料理模型

島津製作所に勤め、学校の理科教育用標本の製作などを手がけていた土田兎四郎、西尾惣次郎らは、1917年(大正6年)11月に「保健食料理模型」を製作し、衛生試験所などに納めたという記録が、西尾製作所の1968年(昭和43年)のパンフレットに残されており、食材が調理され、盛り付けられた状態の模型の記録としては最も古いものである[13]

土田らは寒天で型を取り、を用いてこうした料理模型を作り上げたが、当時の模型の主流は石膏であり、料理模型の製造には不向きであった[14]。西尾の息子にあたる西尾時一は、野瀬のインタビューに対し「石膏を使う限りにおいてきれいな料理模型を作ることは不可能で、大正時代に料理模型を作っていた、または作ったことがあるという人はいないはず」と述べている[14]
白木屋の飲食物見本

1903年(明治36年)10月1日、日本で最も早く百貨店における食堂を設置した[15]白木屋は、1911年(明治44年)10月のエレベーター設置などの大幅な増改築時に本格的な食堂営業を開始した。その後関東大震災を経て1923年(大正12年)11月1日茅場町に二階建て食堂を作った際に、食堂としては初めて「店頭に提供する飲食物の見本の陳列」および「店頭での食券販売による取引」を実施した[16]

このときの見本陳列において、実物による展示では変色が激しく、なんとかならないだろうかと相談を持ちかけられ、蝋製の食品サンプルを提供したのが、東京日本橋で人体・生物模型技師をしていた須藤勉であった[17]。須藤はパラフィンステアリン木蝋などを混ぜ合わせ型に入れたものに油絵具で着色して食品サンプルを製作した[18]オムライスの食品サンプル。
利用者が見やすいよう斜めに陳列されるのが一般的である。[19]
食品サンプル製作の事業化

1932年(昭和7年)6月1日、当時弁当屋を営んでいた岩崎瀧三は、大阪市北区老松町に「食品模型岩崎製作所」を創業した[20]。「貸付け」という手法を採用し、食品サンプルを1か月、実物の食品料金の10倍の値段で貸付けることにより顧客開拓に成功、業績を伸ばしていった[21]。食品模型の需要は拡大の一途を辿り、十合デパートが食品サンプルによる提示を始めると、他の百貨店からも大量の注文が舞い込むようになった。岩崎は都市部の販売網を確立させるとその販路を東海地方中国地方などへ広げていき、日本における食品サンプルの定着化を促した[22]

1939年(昭和14年)、第二次世界大戦が勃発すると、食品サンプルの原材料であったパラフィンは軍事利用を目的として統制品目となり、民間企業による入手が困難となった[23]。模型製造業者はパラフィンの配給を受けるため「蝋製模型工芸組合」などを結成し企業の存続を図ったが、1943年(昭和18年)には食品模型の陳列が全面禁止となり、都市部での生産は途絶した[23]。業界最大手であった岩崎は故郷の岐阜県郡上八幡へ戻るとパラフィンを節約して模型を製造する研究に着手し、従来のパラフィン使用量を0.05%まで削減した模型の開発に成功した。これにより極端な物資不足の中で、戦死者の葬儀用供物の模型を販売することで生き残った。戦争が終結すると岩崎は1948年(昭和23年)には大阪に戻り、1953年(昭和28年)には東京進出を果たすなど、その地位を不動のものとしていった[24]

1970年代に入ると合成樹脂による食品サンプルが製造されるようになった[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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