飛鳥田一雄
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日本政治家飛鳥田 一雄あすかた いちを
『月刊自治研』1963年9月号
生年月日1915年4月2日
出生地 日本 神奈川県横浜市
没年月日 (1990-10-11) 1990年10月11日(75歳没)
死没地 日本 神奈川県鎌倉市
出身校中央大学専門部中退
明治大学法学部卒業
前職弁護士
所属政党(日本社会党→)
左派社会党→)
日本社会党
配偶者寺田幸子(寺田透東京大学教授の妹)
親族父・飛鳥田喜一(横浜市会議員、検察官)、娘・小泉喜子(女性運動家)
衆議院議員
選挙区東京都第1区
当選回数2回
在任期間1979年10月8日 - 1983年11月28日
選挙区神奈川県第1区
当選回数4回
在任期間1953年4月20日 - 1963年4月9日
第18代 横浜市長
当選回数4回
在任期間1963年4月23日 - 1978年3月1日
第8代 日本社会党委員長
在任期間1977年12月13日 - 1983年9月7日
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飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年大正4年〉4月2日[1] - 1990年平成2年〉10月11日[1])は、日本政治家衆議院議員(6期)、横浜市長(4期)、日本社会党委員長を歴任した。
来歴・人物
生い立ち

横浜市出身[1]厚木市の旧家で医師の家に生まれる。

父は弁護士横浜市会議長・高松高検検事長[2]を務めた飛鳥田喜一[1]。5歳の頃に小児麻痺にかかり、左足が不自由となった。これを機に、名の読みを「かずお」から「いちを」に改める。障碍を理由に入学を反対する教員を長野正義(のち飛鳥田夫婦の仲人。横須賀市教育長を経て横須賀市長)らの教員が説得して入学できた神奈川県立第一中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)を経て、旧制水戸高等学校(現・茨城大学)を受験するが、左足の障害を理由に不合格とされた。この際、3?4ケ月不登校となり自宅で父親の書棚にあったバクーニンの書籍を読み、感化された[3]。神奈川県立第一中学校時代の同級生に寺田透(東京大学元教授、夫人の兄)、川合武(元衆議院議員・新自由クラブ)がいる(川合は1971年の第7回横浜市長選挙の際、現職の飛鳥田の対抗馬として自民党推薦で立候補したため、「同級生対決」となった[4])。

中央大学専門部を中退後、明治大学予科に進み、映画研究部に属する。ここで思想的なことも話し合い、マルクス一本やりの読書生活をおくると共に左翼的な活動に入る[5]。1937年(昭和12年)明治大学法学部卒業[6]後、高等文官司法科試験を受験して、弁護士となった。第二次世界大戦終戦直後は弁護士としてBC級戦犯の弁護にあたった。

1946年(昭和21年)日本社会党に入党[1]1949年に横浜市会議員、1951年神奈川県議会議員を経て、1953年第26回衆議院議員総選挙左派社会党から立候補し衆議院議員に当選[6][7]。社会党内では党内最左派の平和同志会に所属し、主に軍事基地反対を訴えた。
横浜市長1963年

1963年、社会党の公認を得て「市長室に扉はない」「市民税は重点政策で市民に返す」を掲げ、現職の半井清、自民党公認の新人田中省吾を辛くも破り、横浜市長に当選する[1]。1963年の統一地方選挙以後、全国で革新首長が続々と誕生し、飛鳥田は革新首長のリーダー的存在と見なされるようになった。1964年には全国革新市長会を結成し、その会長となった[1]

横浜市長としては、1万人市民集会を企画するなど、住民による直接民主制の実現に努力した。このことは「議会軽視」と市会などから批判されたが、飛鳥田が直接民主制にこだわったのは、市議時代、同僚の議員のレベルがあまりにも低すぎ、飛鳥田が市会に不信感を持っていたことに由来する。

また、公園や保育所など社会資本の充実、誕生時に植樹する「おぎゃあ植樹」や固定資産税減免と引き換えに所有山林を市民に開放する「市民の森」制度など緑化事業にも力を入れた。しかし、革新市長のリーダーとみなされた飛鳥田は物価高など、本来、市長の権限ではどうしようもない問題の解決まで迫られ嬬恋村キャベツの上限価格付き産直(下限価格は市税で保証)や石垣島牛肉の産直、ソ連からのシシャモ輸入など試行錯誤で対応した。さらに条例を避け大規模宅地開発への対応を主な目的として市に強い権限を与える宅地開発要綱に代表される要綱行政という裁量行政のマイナス面と市長選考による選考職昇格のマイナス面が合わさって発生した日照権汚職(市長選考にて労働組合活動家から日照権相談室長に昇格した吏員が高層マンション建設業者から収賄)で逮捕されるなどのスキャンダルも発覚した。

市長時代はベトナム戦争の真っただ中だったことから、その在任中も反戦・反基地運動を継続した。代表的な活動として、1972年8月の「戦車闘争」(村雨橋事件、村雨橋闘争、相模原闘争)があり、ベトナム戦争で破損した米軍戦車相模総合補給廠で修理し、再び戦地で使用するため、横浜ノース・ドックへと輸送する戦車積載トレーラーの列を、ノース・ドックへの進入路である横浜市道の村雨橋(神奈川区)の手前で足止めした。村雨橋と相模総合補給廠の前は、賛同する活動家や一般市民でいっぱいとなり、連日機動隊が配備される大きな事件となったが、これにより米軍戦車は、約100日の間、輸送を阻止された。これは車両制限令という政令に基づく市道管理者たる横浜市長による通行制限命令であった(11月に車両制限令が改正され、在日米軍車両は対象外にされた)。

退職時、横浜市長時代の退職金として、一般職員の基準額である1,592万円を受給し、市長としての特別手当1億2,888万円を返上した。
日本社会党委員長

1977年12月13日、社会党は第41回定期大会続開大会を開催。


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