飛騨川流域一貫開発計画(ひだがわりゅういきいっかんかいはつけいかく)とは、岐阜県を流れる一級河川である木曽川の支流、飛騨川を中心として行われた大規模な水力発電計画である。
1962年(昭和37年)より開始されたこの計画は、古くは1911年(明治44年)より日本電力[注 1]、東邦電力[注 2]、日本発送電を経て中部電力により進められ、飛騨川の本流・支流に多数の水力発電所を建設。発生した電力を主に名古屋市を中心とした中京圏へ送電することを目的としており、23箇所の水力発電所で総出力114万3530キロワット[1]の電力を生み出している。
目次
1 地理
2 歴史
2.1 開発の黎明
2.2 開発競争時代
2.3 日本発送電の登場
2.4 流域一貫開発へ
2.5 河川総合開発への参加
2.6 計画完了へ
3 発電・送電施設
3.1 発電所一覧
3.2 送電
4 バス事故とダム操作
5 補償
5.1 一般・公共補償
5.2 漁業補償
5.3 農業補償
5.4 益田川流木事件
6 ダムと観光
7 年表
8 参考文献
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 関連項目
11 外部リンク
地理 加茂郡白川町・七宗町・川辺町にまたがる飛水峡。険阻な峡谷で飛騨木曽川国定公園に指定されている。
飛騨川は木曽川水系における最大級の支流である。乗鞍岳と御嶽山の中間、小説・映画『あゝ野麦峠』で知られる岐阜・長野県境の野麦峠(標高1,672メートル)を水源とし、高山市を西、後に宮峠付近より南へと流れ下呂温泉で名高い下呂市を貫流。流域最大の支流・馬瀬(まぜ)川を下呂市金山町の金山橋付近で合わせた後は概ね南西に流路を取り、美濃加茂市において木曽川に合流、太平洋に注ぐ。流路延長約148.0キロメートル、流域面積約2,177平方キロメートルの河川であり[2]、規模としては木曽三川に包括される揖斐川(長さ約121.0キロメートル、流域面積約1,840平方キロメートル)[3]、長良川(長さ約165.7キロメートル、流域面積約1,985平方キロメートル)[4]に匹敵し、特に流域面積については木曽川水系では最大の面積を有する。なお、かつては源流の野麦峠から馬瀬川合流点までを「益田(ました)川」、馬瀬川合流点より木曽川合流点までを「飛騨川」と呼称していたが、1964年(昭和39年)に河川法が改訂され、水系一貫管理の観点から源流より木曽川合流点までの全域が1965年(昭和40年)に「飛騨川」と改称された[5]。
飛騨川は流域のほとんどを山地で占め、本流は飛騨木曽川国定公園に指定されている中山七里や飛水峡といった険阻な峡谷を形成しており概ね急流である。また飛騨山脈を始めとする豪雪地帯が流域の大半を占めるため、年間の総降水量が約2,500ミリと多雨地帯でもある。このため急流・高落差・豊富な水量という水力発電開発の好条件を全て備える河川であり、只見川や黒部川、庄川、熊野川などと並んで明治時代より水力発電の好適地として注目されていた。飛騨川における河川開発はそのほとんどが水力発電に基づくものである。 飛騨川の水力発電事業は1911年にその第一歩が記され、日本電力・東邦電力の開発競争、日本発送電による国家管理を経て戦後中部電力が一貫開発計画として大規模に推進していった。ここでは飛騨川の電力開発史を時系列に記述する。本文に表記されている水力発電所の出力は、運転開始当時の出力を記している。このため現在の出力とは異なることがある。 木曽川水系における水力発電事業の初見は1898年(明治31年)に当時の八幡水力電気が長良川の支流である吉田川にごく小規模な発電設備を設けて郡上郡八幡町・川合村(現在の郡上市)に電気を供給したのが最初とされている[6]。その後名古屋電灯が1910年(明治43年)に長良川発電所を稼働させ、発電所から名古屋市まで52キロメートルの長距離送電を開始する。当時は日清戦争・日露戦争に伴い重工業が発達、それに伴い電力需要が急増していたためこれに対応するための電力開発が日本各地で盛んに実施されていた。木曽川水系は水力発電の好適地として俄然注目されていたが、その中でも飛騨川は特に開発地点として魅力的な河川であった。 飛騨川では1914年(大正3年)6月、益田郡小坂町(現在の下呂市)にある製材所の用水を利用した川井田発電所(出力50キロワット)が小坂電灯によって運転を開始し、付近の90戸に電力を供給したのが最初の水力発電事業である[7][注 3]。
歴史
開発の黎明 東海地方初の長距離送電に成功した長良川発電所(長良川)。1910年(明治43年)運転開始。