飛行第64戦隊
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飛行第64戦隊
創設
1938年(昭和13年)8月
廃止1945年(昭和20年)
所属政体 日本
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位戦隊
兵種/任務/特性航空作戦
空中戦闘
編成地河南省安陽
通称号/略称高9124
満州404[1]
愛称加藤隼戦闘隊、加藤隼戦闘部隊
最終上級単位第5飛行師団
最終位置南部仏印 クラコール
主な戦歴日中戦争-ノモンハン事件-第二次世界大戦
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加藤隼戦闘隊(かとうはやぶさせんとうたい、旧字体: 加藤?隼戰鬪隊?)とは、大東亜戦争初期に活躍した加藤建夫陸軍中佐戦死後、陸軍少将)率いる大日本帝国陸軍飛行戦隊、飛行第64戦隊(飛行第六十四戦隊。軍隊符号は64FRないし64F、最終時の通称号は高九一二四部隊)の愛称
概要・戦歴
前身・編成1938年春、飛行第2大隊第2中隊長時代の加藤建夫と九五戦1939年、ノモンハン航空戦における第64戦隊の九七戦。整備の地上勤務者らとともに

1938年(昭和13年)8月1日河南省安陽の彰徳飛行場において飛行第2大隊第1・第2中隊立川飛行第5連隊にて編成)と、独立飛行第9中隊平壌飛行第6連隊にて編成)の計3個飛行中隊が合同して飛行第64戦隊が編成された。初代第64戦隊長は寺西多美弥少佐(旧飛行第2大隊長)、加藤建夫大尉は旧飛行第2大隊の第1中隊長であった。

なお、第64戦隊の編成前より九五式戦闘機、のちには九七式戦闘機を装備する飛行第2大隊は日中戦争支那事変)において中国空軍国民革命軍)を相手に活躍しており、1938年3月26日に第2中隊は北支航空戦の帰徳における空戦での武勲から、帝国陸軍航空部隊飛行部隊としては初めて部隊感状北支那方面軍司令官寺内寿一大将名)を拝受、さらに4月29日には飛行第2大隊自体が部隊感状(航空兵団司令官徳川好敏中将名)を授与されているなど、当時から日本陸海軍航空部隊では有数のエース部隊の頭角を現している。

加藤大尉は同年5月、陸軍大学校(専科)入校及び陸軍航空本部員拝命の辞令を受け北支戦線従軍中の飛行第2大隊第2中隊を離れ日本に帰国しているが、8月に改変された第64戦隊は引き続き武漢作戦や南支航空戦に従軍。さらに1939年(昭和14年)7月にはノモンハン事件に参加、ソ連赤色空軍を相手とするノモンハン航空戦では第2代戦隊長横山八男少佐が撃墜される(生存)など激戦を戦い抜き、戦果を挙げた。

陸大を卒業し航本部員として欧米各国を歴訪していた加藤少佐は帰国後の1941年(昭和16年)4月10日、第4代戦隊長として当時広東に駐屯していた第64戦隊に着任。部隊名(隊号)こそ変わっているものの再び古巣に戦隊長として帰ってきたことになる。同年6月1日にはさらに第64戦隊としては初の、第2大隊から数えては3枚目となる部隊感状(南支那方面軍司令官後宮淳中将名)を拝受。
一式戦「隼」映画『加藤隼戦闘隊』(後述)にて第64戦隊機を「演じた」明野陸軍飛行学校所属の一式戦「隼」二型(キ43-II)たち。明飛校の保有機に第64戦隊第1中隊の部隊マークである「白矢印」を描いた詳細は「一式戦闘機」を参照

1941年8月、第64戦隊は帝国陸軍の新鋭戦闘機である一式戦「隼」に機種改変するため日本に帰国、9月にかけて多摩陸軍飛行場(現・横田基地)にて機体を受領した。飛行第59戦隊に次ぐ「隼」装備部隊である第64戦隊は11月より広東で錬成の猛訓練を行い、12月3日には旧駐屯地の広東から35機全機を加藤少佐が率い、卓越した航法により1機の落伍もなしに2千数百kmを一気に飛行し仏印フコク島ズォンドンに進出した[2](第64戦隊は九七戦の頃より夜間飛行・雲上飛行・洋上航法・編隊空戦・無線活用に力を入れていた)。

なお、加藤自身は元々キ43(「隼」)の採用には否定的なスタンスであったため、第64戦隊長として機体を受領したのち「隼」大成にかける情熱に当初周囲は驚いている。この時、加藤は到着後直ちに単機の模擬空戦を初めて乗る「隼」で行ったが、低位からの空戦演習に陸軍飛行実験部実験隊の荒蒔義次大尉に勝てず、「どうしても低位からの空戦に勝ちたいと思った」と模擬空中戦を4度繰り返し荒蒔を驚かせている[3] 。詳細は「一式戦闘機#愛称」を参照

なお、一式戦に「隼」という愛称が陸軍航空本部報道官によって公式命名されたのは太平洋戦争開戦まもない1942年3月であるが、その「隼」の名は一式戦をもって活躍することとなる第64戦隊の部隊歌冒頭のフレーズ(後述)から取られたものとされている。
南方作戦1942年初頭、第64戦隊のピスト(フランス語に由来する空中勤務者控所を意味する陸軍用語)にて第3中隊長安間克巳大尉らと談笑する加藤建夫戦隊長詳細は「一式戦闘機#南方作戦」を参照

第7飛行団に所属する第64戦隊は、12月7日より対米英戦争(太平洋戦争)開戦にむけて、マレー作戦の主力第25軍司令官山下奉文中将)を乗せた上陸部隊輸送船団の海上空中護衛を、加藤少佐機以下7機が実施。夜間・洋上・悪天候・長時間という特に単座戦闘機にとっては最悪の条件にもかかわらずこれを成し遂げた(悪天候により高橋三郎大尉・中道格蔵少尉・都築昌義准尉3機未帰還)。帰還後の翌8日、マレー半島北部の連合軍航空戦力に対し航空撃滅戦を展開するため、第64戦隊はほとんど休養を取らずに午前9時50分(日本時間)に加藤少佐機以下全機が出撃。第2中隊機がブレニム1機(第34飛行隊スミス軍曹機)を撃墜(損傷、バターワース飛行場に胴体着陸)、さらにバターワース飛行場の在地敵機に対し機銃掃射しブレニム4機(第34飛行隊)を破壊、第64戦隊の損害は皆無で全機が無事帰還した[4]

マレー作戦の主要戦場は日本軍に対して数倍の規模を持つ連合軍地上戦力への攻撃であり、常に日本軍航空戦力の制圧下に置く事が勝利の条件であった。このため第64戦隊も日に複数の長距離の行程を経て地上支援と哨戒戦闘を行い、連合軍機の多くを空中・地上で撃墜破した。第64戦隊の「隼」と連合軍戦闘機との空中初交戦は12月22日であり、「隼」23機はクアラルンプール飛行場を攻撃、迎撃に現れたイギリス空軍第453飛行隊のバッファロー12機と交戦、1機を喪失(リード軍曹機と衝突)するも3機を撃墜、4機を撃破(不時着損傷)する戦果を挙げた[5]

マレー作戦の最終目的地であるシンガポール攻略中の1942年1月20日、数日前に中東方面より新鋭補充機として同地に到着・配備されていたハリケーンと第64戦隊は初めて交戦。この空戦で「隼」は1機を喪失するも敵指揮官機を含むハリケーン3機を撃墜した(臨時第232飛行隊ランデルス少佐機・マーチパンクス少尉機・ウィリアムズ少尉機)。当初からホ103 12.7mm 機関砲2門を装備した特別仕様機である加藤少佐機は一連射5、6発でウィリアムズ少尉機を発火撃墜する活躍を見せている[6](最初期の「隼」の武装はホ103 12.7mm 機関砲1門・八九式 7.7mm 機関銃1挺の混成装備が標準。


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