風魔
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風魔(かざま/ふうま)、風摩/風广は、三浦浄心の『北条五代記』において、北条氏直に扶持され、天正9年(1581年)の「黄瀬川の戦い」で敵方の武田の陣に夜討ちをする集団を率いた乱波として紹介されている人物。後北条氏の発給文書などに名前のみえる「風間出羽守」や、『関八州古戦録』などに名前のみえる「風間孫右衛門」はそのモデルとみられている。

また同著者の『見聞集』には、江戸時代初期に向崎甚内が関東各地の盗賊の首領を「風魔の一類らっぱの子孫ども」だと告発して江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、盗賊は根絶やしにされたが、後で向崎甚内も「大盗人」として処刑された、との逸話がある。

『鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎とは別人。派生して物語に登場する人物として風魔小太郎は著名。
伝説.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに北条五代記の原文「氏直亂波。二百人扶持し給ふ中に。一の惡者?有。かれが名を。風摩と云。」があります。ウィキソースに慶長見聞集の原文「下総の国向崎といふ在所の傍に、甚内といふ大盗人有りしが、訴人に出て申しけるは、関東に頭をする大盗人千人も二千人も候べし。是皆古名を得しいたづら者、風魔が一類らつはの子孫どもなり」があります。

三浦浄心が著した寛永18年(1641年)刊の『北条五代記』によると、天正9年(1581年)の秋に北条氏直が黄瀬川をはさんで武田勝頼信勝父子と対陣したとき、風广と「四頭」に率いられた山賊、海賊、強盗、窃盗の「四盗」、合計200人から成る一党は、夜々に黄瀬川を渡って敵陣を襲い、人を生け捕りにし、繋ぎ馬の綱を切ってその馬に乗り、更にあちこちに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵方はさんざん動揺した。頭目の風广について、武田軍の兵士は「身の丈7尺2寸(約218cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という、異様な風貌をしていると噂したという。[1]

『北条五代記』には、後北条氏滅亡後、風广の噂や乱波の名前は関東から消え失せた、とあるが、同じ三浦浄心の著書『見聞集』には、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領はみな昔有名だったいたづら者、風广が一類・らっぱの子孫どもです。自分は居場所を知っているのでご案内しましょう」と訴え出て、江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたという逸話を載せている。同書によると、後に向崎甚内も「大盗人」であることがわかり、慶長18年(1613年)に浅草原で処刑された。

『北条五代記』や『見聞集』の作中では、風魔の出自や根拠地などは明らかにされていない。
表記・読み

三浦浄心の著書?『北条五代記』寛永版・万治版および『見聞集』[2]?における表記は「風广」で、「广」は浄心の著書の中で「天广」「須广」「薩广」「達广」など「まだれ」の漢字全般の略字として用いられている。読みは『北条五代記』に振仮名「かざま」とあり、『見聞集』には振仮名がない。

明治期以降の翻刻刊行の際に、漢字表記は「風广」「風魔」「風摩」にわかれており[3]、振仮名は全般に脱落している(下表)。

大正期以前の『北条五代記』(北)『見聞集』(見)翻刻における「風广(かざま)」の表記と振仮名書名表記振仮名
1900年『改定史籍集覧 第5冊』(北)風摩(なし)
1901年『改定史籍集覧 第10冊』(見)風广(なし)
1906年『古事類苑 兵事部8 間諜』(北)風魔(なし)
1912年『雑史集 全』(見)風魔(なし)
1916年『江戸叢書 巻の2』(見)風广(なし)

[4]
モデル
岩槻・越谷周辺に残る足跡岩槻・越谷周辺の「風間出羽守」関連地名地図

後北条氏の発給文書に、『北条五代記』の風魔のモデルと思しき「風間」の人名がみえることは、文政13年(1830年)の『新編武蔵風土記稿』の中に指摘があり、その後、関連する文書が何件か見つかっていて、中でも「風間出羽守」の人名がみえるものが1件あることが知られている[5][6][7]

元亀3年(1572年)5月7日付けで、後北条氏(笠原藤左衛門尉)は、岩井弥右衛門尉らに、風間の受け入れの準備をさせるよう指示した[8]

北条家朱印状写(新編武蔵風土記稿111)[8]風間来七月迄六ヶ村被為置候間、宿以下之事、無相違可申付候、万一対知行分、聊も狼籍致ニ付而者、風間ニ一端相断、不致承引者、則書付者、小田原へ可捧候、明鏡ニ可被仰付候、馬之草・薪取儀をは、無相違可為致之者也、仍如件、


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