風魔小太郎
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風魔 小太郎(ふうま こたろう)、風摩 小太郎は、相模国足柄下郡出身で、風魔一族(ふうまいちぞく)ないし風魔忍者(ふうまにんじゃ)を率いて代々後北条氏に仕えた乱波の首領。後北条氏滅亡後は江戸へ上り、盗賊になったとされる。根拠地は武蔵国足柄山地ともいわれる。『北条五代記』の風魔と、風魔に関連する『見聞集』の逸話、『鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎から生まれた伝説の忍者である。

1932年の白石実三『武蔵野から大東京へ』に登場。1963年-1964年のテレビ映画隠密剣士』第5部・第6部で天津敏が演じた風摩小太郎(の子孫)は最高視聴率40%超を記録した。1980年代以降のモチーフ作品に車田正美風魔の小次郎』、隆慶一郎原哲夫花の慶次』、鎌谷悠希隠の王』など。2006年からPS2戦国BASARAシリーズ戦国無双シリーズ、2015年からスマホ向けRPGFate/Grand Order』にゲームキャラクターとして登場。
前史
『北条五代記』の風魔詳細は「風魔」を参照.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに北条五代記の原文「氏直亂波。二百人扶持し給ふ中に。一の惡者?有。かれが名を。風摩と云。」があります。

寛永18年(1641年)刊の三浦浄心『北条五代記』[1] によると、天正9年(1581)に北条氏直黄瀬川武田勝頼信勝の軍勢と対陣したとき、氏直が扶持した乱波の1人・風广(風魔・風摩)は「四頭(四盗)」と200人の徒党を率い、武田の陣に夜討ちをして相手を苦しめた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}氏直乱波。200人扶持し給ふ中に。1の悪者有。かれが名を。風广と云。たとへば西天竺。96人の中。1のくせ者を外道といへるがごとし。—『北条五代記』寛永版 巻9「関東の乱波智略の事」より[2]

同書によると、風广は、謀計・調略に非凡な才能を発揮し、武田軍の兵士はその風貌について、身の丈が7尺2寸(約218cm)あり、目や口が裂けて、牙が4本出ているなど、人間離れしていると噂した、という。作中では、風广の出自などは明らかにされていない。
風間の三郎太郎『北条五代記』万治版挿絵に描かれた風广

万治2年(1659年)に『北条五代記』の絵入り本が刊行された後、同4年(1661年)に刊行された『古老軍物語』は、「乱波」とは「忍びの者」であり、風广は近江甲賀出身の風間(かざま)の三郎太カで、どんなに厳しい番所をも忍び入るので、「風間」と名付けられた、と解釈し直した[3]。なお、「甲賀三郎」は、諏訪大社の縁起物語の主人公の名である[4]
風間小太郎詳細は「風間小太郎」を参照

寛文12年(1672年)刊の推定・浅井了意著『鎌倉管領九代記』[5] は、永享12年(1440年)から翌年にかけての結城合戦のとき、結城城を包囲した幕府軍の総大将・上杉清方の命を受けた相模国足下郡に住なれた忍びの上手・風間小太郎が密使として城中に入り、籠城方の城将・山内氏義(山川基義)を離反させることに成功した、と伝えている。管領(くはんれい)大に喜ひ給ひて。其頃世に隠れなき忍びの上手に相模(さかみ)国足下郡(あしものこほり)に住なれし。風間(かさまの)小太郎といふ者をぞつかはされける。—『鎌倉管領九代記』巻4(持氏)下「千葉介軍評定付山内氏義出城」より[6]
風間の弟子たち
小田原の風間が弟子

寛文6年(1666年)刊の浅井了意『伽婢子』では、武田軍が信州割峠(割ヶ嶽城)に出馬した永禄4年(1561年)頃[7]武田信玄今川氏真から借りて秘蔵していた『古今和歌集』を盗み出して甲州の西郡を風のような速さで進んでいた犯人が、歩行の達者・熊若に捕えられ、「(前略)我は上州箕輪の城主・永野が家につかへし竊(しのび)のもの、もとは小田原の風間が弟子也。わが主君の敵なれば信玄公をころさんとこそはかりしに、本意なき事かな。(後略)」と言い残して、殺される[8]
飛加藤詳細は「加藤段蔵」を参照

同じ『伽婢子』の中で、越後国春日山城にやってきて「牛をのむ」などの幻術を披露して人々を驚かせ、長尾謙信に召し出されて家臣の直江山城守の家から長刀と「女の童(めのわらは)」を盗み出し、危険視されて逃亡した後、武田氏に仕官しようとして殺されていた「名誉の窃盗(しのび)」飛加藤[9]、元禄11年(1698年)の槇島昭武『北越軍談』では「小田原の風間が弟子」と同一人物とみなされ、風間次郎太郎の伝授を受けたとされるようになった[10]

天文元年(1736年)の江島其磧浮世草子『風流軍配団(うちわ)』では、風間の三郎大夫とその弟子の飛加藤は、2人で長尾謙信に仕え、武田氏との合戦で夜討ちや盗みをして活躍するが、のち風間は郷里の近江で逼塞する。飛加藤に三浦の大介殿着用の鎧を盗まれた北条早雲の家中はこれに対抗するため風間を召し抱えようとするが、譜代の家臣・大道寺新蔵人が「武士の正道ではない」と反対し、風間は後北条氏に仕えないまま物語が終わる[11]
二曲輪猪助詳細は「二曲輪猪助」を参照

享保11年(1726年)成立の槇島昭武著『関八州古戦録』では、河越夜戦のとき、風間小太郎の指南を受けた二曲輪猪助が、北条氏康の命を受けて、敵方の上杉氏の陣に斥候として差し向けられる[12]
風摩の一類

風魔小太郎は、戦前の忍術映画などに登場した形跡がほとんどなく、大正の頃流行した立川文庫にも名が出てこないと指摘されている[13]。一方で、戦前には下記の関連作品が刊行されている。
『見聞集』と向崎甚内詳細は「見聞集」および「向崎甚内」を参照

『北条五代記』の著者・三浦浄心の子孫の家に秘書として伝えられた『見聞集』は、期頃から写本で流布し、明治期以降、1901年、1906年、1912年、1916年と、たびたび翻刻が刊行された。

『見聞集』には、後北条氏滅亡後、向崎甚内が「関東各地に千人も二千人もいる盗賊の首領は、みな昔有名だったいたづら者、風魔の一類らっぱの子孫どもです。自分は居場所を知っているので案内しましょう」と訴え出て、江戸町奉行所による「盗人狩」が行われ、「盗人」が根絶やしにされたが、その後、向崎甚内も「大盗人」だったことがわかり、慶長18年(1613年)に浅草原で処刑された、との逸話を載せていた[14]

向崎(高坂)甚内については、『見聞集』が流布したとみられる時期より前の享保17年(1732年)の『江戸砂子』に、浅草・鳥越で処刑された後に瘧(マラリア)の神とされるようになったことの紹介があり[15]馬場文耕『皿屋敷弁疑録』などによって、武田の遺臣、『番町皿屋敷』のお菊の父、辻斬りをして逐電し諸国を放浪した、などの後伝が発展していた。


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