風間八宏
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風間 八宏

名前
愛称ヤヒロ
カタカナカザマ ヤヒロ
ラテン文字KAZAMA Yahiro
基本情報
国籍
日本
生年月日 (1961-10-16) 1961年10月16日(62歳)[1]
出身地静岡県静岡市清水区[1]
身長173cm[2]
体重67kg[2]
選手情報
ポジションMF
利き足右足
ユース
1977-1979清水市立商業高等学校
1980-1983筑波大学
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1984ジョイフル本田
1984-1985バイエル・レバークーゼンII
1985-1988レムシャイト
1988-1989ブラウンシュヴァイク 15 (0)
1989-1992マツダSC 63 (7)
1992-1995サンフレッチェ広島 103 (6)
1996-1997レムシャイト
代表歴2
1979 日本 U-203 (0)
1980-1983 日本 [3]19 (0)
監督歴
1997-2004桐蔭横浜大学
2008-2012筑波大学
2012-2016川崎フロンターレ
2017-2019名古屋グランパス
2024-南葛SC
1. 国内リーグ戦に限る。2023年11月7日現在。
2. 2007年10月5日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

風間 八宏(かざま やひろ、1961年10月16日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはミッドフィールダー
経歴
大学卒業まで

母子家庭で、母親は磯料理を営み息子3人育て、風間八宏はその長男[4]

清水市立商業高校 (後の静岡市立清水商業高等学校) 時代、監督の大滝雅良をして「教える事は何もない」と言わしめるほどの選手で、大滝がこれまでの指導法を変えるほどの影響を与える。3年連続で静岡県高校ベストイレブンに選出される。

また、高校在学中に日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権の日本代表に選出され、仙台向山高鈴木淳帝京高名取篤とともに高校生トリオとして名前を馳せる。

筑波大学入学後は蹴球部に所属し、在学中の1980年に日本代表に選出され同年に香港で行われた1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選(1次予選)にレギュラーとして出場。
ドイツでのプレー

卒業後は海外でのプレーを希望し、日本サッカーリーグには所属せず、茨城県リーグのジョイフル本田に所属していた。ロサンゼルスオリンピック予選終了後の1984年、筑波の恩師である松本光弘の紹介で西ドイツバイエル・レバークーゼンIIとアマチュア契約にて入団[5]。その後5年間にわたってドイツの2部、3部リーグのクラブを転々とした。
Jリーグでのプレー

1989年、ドイツから帰国すると日本サッカーリーグ2部のマツダSCに入部。翌1990-91シーズンに1部復帰を果たす。1992年、Jリーグ発足に伴ってサンフレッチェ広島F.Cとして新たなスタートを切ると、Jリーグ開幕戦、開始1分でチーム第1号ゴールと日本人選手Jリーグ初ゴールを決めた。同年、NICOSシリーズの第1節においても、リーグ戦で日本人初めての直接FKによるゴールを決めた。以降も多彩なパスで中盤を操り、またキャプテンとしてチームの精神的支柱となり活躍。1994年のサントリーシリーズ優勝にも貢献した。

1995年に広島を退団。再びドイツに渡り、FCレムシャイト(ドイツ語版)に復帰するが1年で退団し、現役を引退した。
指導者に
桐蔭横浜大学サッカー部監督

1998年桐蔭横浜大学サッカー部の監督に就任した[6][7][8]。それまで同好会レベルでしかなかった桐蔭横浜大学サッカー部は風間監督就任を期に本格的に活動を開始し、同1998年に神奈川県リーグ2部全勝優勝し、1部昇格をはたした。さらに、2000年に神奈川県リーグ1部で初優勝した。風間は2003年まで、桐蔭横浜大学サッカー部監督を6年つとめた。

2004年JFA公認S級コーチライセンスを取得した。2006年8月に日本サッカー協会特任理事に就任し、2008年7月の役員改選で元Jリーガーとしては初めて正式な理事となった。また、フジテレビの『すぽると!』などで解説を務めた。
筑波大学蹴球部監督

2008年より2012年4月20日まで母校である筑波大学蹴球部の監督、筑波大学体育センター准教授(サッカーコーチング論)を務めた。
川崎フロンターレ監督

2012年4月23日にJ1・川崎フロンターレ監督に就任。4月28日の監督就任初戦は古巣のサンフレッチェ広島を相手に采配を振ることとなった[9]。フジテレビ『すぽると!』レギュラー出演は4月23日深夜の出演が最後となった[10]。5月8日、Jリーグ理事を退任することが発表された[11]

就任後は大島僚太登里享平小林悠谷口彰悟車屋紳太郎などの若手選手を辛抱強く起用し主力になるまでに育てた。また、選手としてピークに差し掛かっていた中村憲剛を2016年にMVPを獲得するまでに技術力を底上げし、当時伸び悩んでいた大久保嘉人を神戸から獲得し3年連続で得点王に輝くまでに再生するなど育成面で特に手腕を発揮し、後にJ1で優勝を果たすチームの土台を作り上げた。

2016年10月12日、新契約を結ばずに2016年シーズン限りで川崎フロンターレを退団することが発表された。

2017年1月1日、天皇杯決勝を最後に退任。
名古屋グランパス監督

2017年1月4日、J2に降格した名古屋グランパス監督就任が発表された。リーグ戦は3位、J1昇格プレーオフの準決勝戦ではジェフユナイテッド市原・千葉戦を4-2に勝利し、決勝で4位のアビスパ福岡戦では0-0で引き分けでプレーオフ規定でJ1昇格を果たした。2018シーズンは低迷したものの、最終的には残留し、最終戦である湘南ベルマーレ戦で行われた2018シーズン終了セレモニーで、株式会社名古屋グランパスエイト代表取締役社長小西工己から続投が発表されたが、成績不振により2019年9月23日付で解任された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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