風見慎吾
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かざみ しんご
風見 しんご
本名大下 義博(おおしたよしひろ)
別名義風見慎吾
生年月日 (1962-10-10)
1962年10月10日(56歳)
出生地広島県広島市西区
身長169cm
血液型A型
職業俳優タレント歌手
ジャンルバラエティ番組テレビドラマ
活動期間1982年 -
配偶者既婚

 受賞
第16回日本有線大賞最優秀新人賞

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風見 しんご(かざみ しんご、1962年10月10日 - )は、日本俳優タレント歌手ダンサー。1982年 - 1988年:バーニングプロダクション(当初の芸名は「風見慎吾」)→1989年 - 現在:(株)マスタープラン所属(バーニング系)。
目次

1 来歴・人物

2 交通安全啓発運動について

3 エピソード

4 出演

4.1 主なテレビドラマ

4.1.1 現在(放送中レギュラー番組)

4.1.2 過去(主な作品)


4.2 映画

4.3 Vシネマ

4.4 舞台

4.5 情報・バラエティ

4.5.1 現在(放送中レギュラー番組)

4.5.2 過去(主なレギュラー番組)


4.6 その他

4.7 主なラジオレギュラー

4.8 主なCM


5 音楽活動

5.1 シングル

5.2 アルバム


6 風見しんごに影響を受けた人物

7 脚注

8 外部リンク

来歴・人物

地元の町工場を経営する父の影響でエンジニアを目指していた。広島学院中学校・高等学校に進学、周囲からは広島大学を勧められていたが、東京の成蹊大学に進学する。大学在学中の1981年東京ビクトリークラブのメンバーだった哀川翔原宿で見て、チームに入れてくださいと懇願しメンバー入り[1]。デビュー前はリーゼントでキメて、愛称は"ボビー"。哀川とお揃いのダブル革ジャンを着てラバーソウルを履いて二人で歩いていると、当時よく雑誌に声をかけられた。「ポップティーン」や「プチセブン」に初めて載った名前は"ボビー"であった。哀川が始めた劇団に「お前も参加しろ」と声をかけられて参加してその後、その劇団に入って来たのが野々村真羽賀研二で、柳葉敏郎はまだいなかった[2]欽ちゃんの週刊欽曜日のオーディションに野々村の付き人として風見と武野功雄(のちに欽ドン出演)の2人が同行して、なぜか付き人として行っていた風見が合格した[1]。その後、野々村はいいとも青年隊となる。風見と野々村は劇男一世風靡の前身・劇男零心会のメンバーで、劇男一世風靡には参加していないが『哀川翔のオトナ倶楽部』「第15回ボビーと革ジャンとリーゼントと」(BSフジ)で哀川は、風見と野々村を「初期一世風靡のメンバー」と紹介した[1]

1982年TBS欽ちゃんの週刊欽曜日』オーディションに合格してデビュー(当時は「風見慎吾」という芸名だった)。合格した理由も、この時のオーディションで萩本欽一に会った時に大きな声であいさつし「有名人を前に萎縮することもなくて、バカでかい声であいさつして合格!」と言われたという単純なことだった[3]。風見自身は元々母親から大きな声であいさつするように言われて育ち、声が大きくなったことで友達も出来易く「いいことがたくさんあった」という。こういったことから、自分の娘たちにも大きな声であいさつすることを教えているという。なお、娘たちには自分たち両親のことを「チチ」「ハハ」と呼ばせている[3]

この番組で欽ちゃんファミリーの若きメンバーとして存在感を放つ。その傍らで劇男一世風靡が分裂する前の劇男零心会のメンバーとして活躍していた(劇男零心会に参加していたが劇男一世風靡には参加していない)[1][2]。デビュー日(1982年10月8日)以来、現在まで一度もレギュラー番組が途切れることなく37年目(2019年4月期現在でレギュラー番組98本)になる。

1983年5月には「僕笑っちゃいます」でレコードデビューを果たし、このシングルはデビュー曲でありながら風見自身の最大のヒットとなり、代表曲となる。第16回日本有線大賞最優秀新人賞、第16回日本レコードセールス大賞新人賞(男性部門)などをそれぞれ受賞した。

4曲目の「涙のtake a chance」(1984年12月リリース)は、自らニューヨークに出向き猛特訓でブレイクダンスを修得。振り付けに大胆に取り入れ、当時の音楽番組で大きな話題を呼んだ。日本におけるブレイクダンスの先駆者であり、テレビを通して日本中にブレイクダンスを広めた人物と評価される[4]

「涙のtake a chance」の次はタップダンスを、と師匠の萩本欽一に促されるも、本人が固辞し5曲目はさらに激しいダンス(ヌンチャクを使用した、本人曰く「バトルダンス」)の「Beat On Panic」(1985年4月リリース)となり、B面の「Hollywoodスペシャル」がタップダンス調となった。「Beat On Panic」は打ち込みを導入したエレクトロ風のファンキー楽曲で、曲の一部にラップが取り入れられており、これも日本のポピュラー音楽への導入としては初期のものとなる。

WEB配信番組にもいち早く取り組み、2002年12月からテレビスタジオ(パナソニックセンター有明スタジオ)よりテレビカメラ4台使って2時間の生配信レギュラー番組「TOKYO ひかり TOWN」を放送した。

主演映画は3本で1987年公開『泣き虫チャチャ』は自身の6曲目「泣き虫チャチャの物語」がテーマ曲。同年の『あいつに恋して』では相手役オーディションで森高千里が選ばれ芸能界入り[5]。さらに1992年の『200X年 翔』では息子役に堂本光一、同級生役で堂本剛も出演し、その後「KinKi Kids」としてのデビューに繋がった。

映画の役柄でピアスを開けたが当時はピアスをしている男は少なく、同郷の"吉川晃司とデキてる"などと週刊誌に揶揄された。この頃、銀蠅一家嶋大輔矢吹薫の3人で『ハリケーントリオ』を結成して全国を回った[2]。風見はデヴィッド・ボウイの大ファンで、デヴィッド・ボウイと同じスーツを誂え、化粧も施してビリー・ジョエルや、カルチャー・クラブの楽曲、欽ちゃんファミリーメドレーなどを3人で歌った[2]


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