風見しんご
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かざみ しんご
風見 しんご
別名義風見慎吾
生年月日 (1962-10-10)
1962年10月10日(61歳)
出生地広島県広島市西区己斐
身長169cm
血液型A型
職業俳優タレント歌手
ジャンルバラエティ番組テレビドラマ
活動期間1982年 -
配偶者既婚

 受賞
第16回日本有線大賞最優秀新人賞

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風見 しんご(かざみ しんご、1962年10月10日 - )は、日本俳優タレント歌手ダンサー。当初の芸名は風見 慎吾(読み同じ)。1982年から1988年までバーニングプロダクション、1989年よりマスタープラン(バーニング系)に所属。日本における「ブレイクダンスの先駆者」とされる[1][2][3]

還暦(60歳)を迎えた2022年10月10日、恩師・萩本欽一のYouTube生配信番組『夢欽月曜日』に突然現れ、60歳を機に芸能活動を年内で一区切りして来年(2023年)1月よりロサンゼルス語学留学すると報告。すでに6年前より次女と妻は渡米していた。2023年2月より不定期ながら萩本欽一のユーチューブ番組新企画『新欽ちゃん“新しい木曜日!?”』に風見しんごのご近所散歩でロサンゼルスでの様子を動画配信!
来歴・人物

地元の町工場を経営する父の影響でエンジニアを目指していた。広島市立己斐小学校を経て、広島学院中学校・高等学校に進学。高校生時代は数学物理が得意で[4]、周囲からは広島大学を勧められていたが、東京成蹊大学工学部機械工学専攻)に進学する[4]。大学在学中の1981年東京ビクトリークラブのメンバーだった哀川翔原宿で見て、チームに入れてくださいと懇願してメンバー入り[5]。デビュー前は髪型をリーゼントでキメていた。愛称は"ボビー"。哀川とお揃いのダブル革ジャンを着てラバーソウルを履いて二人で歩いていると、当時よく雑誌に声をかけられ『ポップティーン』や『プチセブン』に初めて掲載。哀川が先に加入していたグループに「お前も参加しろ」と声をかけられ参加する。その後、そのグループに加入したのが野々村真羽賀研二[6]。『欽ちゃんの週刊欽曜日』のオーディションに野々村の付き人として風見と武野功雄(のちに『欽ドン』出演)の2人が同行[3]、何故か付き人として行っていた風見が合格[3][5]。その後、野々村と羽賀はいいとも青年隊となる。野々村と羽賀は劇男一世風靡の前身である劇男零心会のメンバーで、劇男一世風靡に参加していないが、風見は立ち上げには関わり、事実、哀川達と「ユニーク集団 劇男一世風靡を立ち上げました」と語り、劇男一世風靡の舞台にも上がっている。『哀川翔のオトナ倶楽部』「第15回ボビーと革ジャンとリーゼントと」(BSフジ)で哀川は、風見と野々村を「初期一世風靡のメンバー」と紹介した[5]

1982年TBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』オーディションに合格。芸能界デビュー(当時の芸名は風見慎吾)[3]。合格理由も、この時のオーディションで萩本欽一に会った時に大きな声で挨拶。「有名人を前に萎縮することもなく、バカでかい声で挨拶して合格!」と言われたという[7]。風見は元々母親から大きな声で挨拶するよう言われて育ち、声が大きくなったことで友達も出来易く「いいことがたくさんあった」。こういったことから、自分の娘たちにも大きな声で挨拶することを教えている。娘たちには自分と妻を「チチ」「ハハ」と呼ばせている[7]

欽ちゃんファミリーの中で抜群のアイドル性を放った[3][5][6]。デビュー日(1982年10月8日)以来、現在まで一度もレギュラー番組が途切れることなく40年目(2022年4月期現在でレギュラー番組99本)を迎えている。

1983年5月、同郷の大先輩である吉田拓郎作曲の「僕笑っちゃいます」でレコード・デビュー[2][3]。デビュー曲ながら33万枚売上[3]、風見最大のヒット曲にして代表曲[3]となった。2曲目「泣いちっちマイ・ハート」と合わせ、第16回日本有線大賞最優秀新人賞、第16回日本レコードセールス大賞新人賞(男性部門)などそれぞれ受賞[3]。4曲目「涙のtake a chance」(1984年12月)では自ら米国ニューヨークに出向き猛特訓でブレイクダンスを修得[1][2][3]。振付に大胆に取り入れ、当時の音楽番組で大きな話題を呼んだ[3]。女性だけでなく男性アイドルにさほど興味のない10代の男たちを虜にした功績は大きく[3]日本におけるブレイクダンスの先駆者で、テレビを通し日本中にブレイクダンスを広めた人物と評価[1][2][3]。風見がレギュラー出演した『欽ちゃんの週刊欽曜日』は、風見のブレイクと同時に『ザ・ベストテン』などの歌番組に出演することにより[3]、逆輸入する形で[3]、風見を見たい若い男性ファンと10代の少女ファンを取り込み人気も本格的なものになった[3]。風見は新しい視聴者層を開拓した功労者[3]。「涙のtake a chance」の次はタップダンスを、と師匠の萩本欽一に促されるも、固辞。5曲目は更に激しいダンス(ヌンチャクを使用した、本人曰く「バトルダンス」)の「BEAT ON PANIC」(1985年4月)、B面の「Hollywoodスペシャル」がタップダンス調となった。「BEAT ON PANIC」は打ち込みを導入したエレクトロ風のファンキー楽曲で、曲の一部にラップが取り入れられており、これも日本のポピュラー音楽への導入としては初期のものとなる。また週刊欽曜日で歌う時にインカム式ヘッドマイク(ブレイクマイク)導入もいち早く初期である。

WEB配信番組にもいち早く取り組み、2002年12月からテレビスタジオ(パナソニックセンター有明スタジオ)よりテレビカメラ4台を使って2時間の生配信レギュラー番組『TOKYO ひかり TOWN』を放送。

主演映画は3本。1987年公開『泣き虫チャチャ』は6曲目「泣き虫"チャチャ"の物語」が主題歌。続いて同年公開『あいつに恋して』では相手役オーディションで森高千里が選ばれ芸能界入り[8]。1992年公開の『200X年 翔』では息子役に堂本光一、同級生役に堂本剛が出演、その後、彼等は「KinKi Kids」としてデビューした。

映画の役柄でピアスを開けたが、当時はピアスをしている男は少なく、同郷の"吉川晃司とデキてる"などと週刊誌に揶揄された。1983年、銀蠅一家嶋大輔矢吹薫の3人で「ハリケーントリオ」を結成、全国を回った[6]。風見はデヴィッド・ボウイの大ファンで、ボウイと同じスーツを誂え、化粧も施してビリー・ジョエルや、カルチャー・クラブの楽曲、欽ちゃんファミリーメドレーを3人で歌った[6]。選曲は放送作家集団「パジャマ党」大岩賞介[6]。当時は3人の所属レコード会社が既に異なった為、ハリケーントリオとしてレコード・デビュー出来なかったが所属事務所、レコード会社が違うアーティストでグループを組んでの活動もイモ欽トリオわらべのように欽ちゃんファミリーが初期となる。

バンドブーム全盛期の1988年から1990年まで、TBSで放送された音楽番組『キラリ・熱熱CLUB』の司会を16回まで務めた[9]。またニッポン放送で嶋、羽賀、松村雄基らと『どんまいフレンド』というラジオ番組を持った[6]

一人称を「自分は?」と呼ぶ口調が特徴的(普段の公式ブログやコメントなどでは主に「僕」)。

1990年代頃よりバラエティ番組やドラマに出演。高視聴率を上げるレギュラー番組の出演も多く、各局の社長賞及び会長賞も数多く受賞。ゲスト出演としても高視聴率や最高視聴率を獲得、師匠の萩本に負けず劣らず視聴率を稼げるタレントとなる。『マジカル頭脳パワー!!』が最高視聴率31.6%を記録したのは1996年5月2日の放送、瞬間最高視聴率の40.9%を記録したのは1996年4月11日の「第16回大マジカル!!」の放送で風見がマジカルアート伝言バトルでアートを描いていた時。他にも視聴率が今ひとつだった番組に風見をゲストに迎えたところ、それまでの最高視聴率を出し、その後人気番組になったものも多い。その番組として『開運!なんでも鑑定団』、『チューボーですよ!』『天才!志村どうぶつ園』等がある。また『週刊スタミナ天国』『所さんのただものではない!』『投稿!特ホウ王国』『嗚呼!バラ色の珍生!!』『マジカル頭脳パワー!!』『伊東家の食卓』等の番組にゲスト出演し高視聴率をたたき出しそのままレギュラーとなる。この状況を見て現在レギュラーの『噂の!東京マガジン』の元プロデューサーの吉岡は約2年間交渉して1997年4月に風見を迎え入れることができた。当初は事務所の希望で準レギュラーでの出演に留まり、風見単独コーナーを持たせ高視聴率を得、レギュラーとなり現在に至る。この他にも長寿番組にレギュラー出演している。
交通安全啓発運動.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキニュースに関連記事があります。

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2007年1月17日、当時10歳で小学5年生の長女が東京都世田谷区で通学時、青信号のタイミングで交差点通行中、配送用の2トントラックにはねられ、病院に搬送されたが死亡した。なお、現場となる交差点に当該トラックが進入した道路は、当時スクールゾーン指定でありトラックはもちろん車輌一切が進入禁止であった。

自宅を出て数分後、近所の人が「事故!」と言いながら飛び込んできて、足の骨でも折ったかと現場へ向かい、「見ないほうがいい」という制止を振り切って、轢かれた娘を目の当たりにした[10]


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