風船爆弾
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この項目では、兵器について説明しています。ロックバンドについては「風船爆弾 (パンクロックバンド)」をご覧ください。
風船爆弾アッツ島近辺で撃墜される風船爆弾(ガンカメラによるもの)。

風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した気球爆弾を搭載した爆撃兵器である[1][2]日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図した[3]

1944年昭和19年)11月初旬から放球を開始[4]1945年(昭和20年)3月まで約9000個余りが放たれた[5]。少なくとも300個程度が北アメリカ大陸に到達したとみられる[6]アメリカ合衆国西海岸オレゴン州では6人が死亡した[3][7]。実戦に用いられた兵器としても約7,700 km茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃であった。戦果こそ僅少であったものの、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器である[4]

日本陸軍日本海軍が開発し、陸軍が特殊兵器として実戦投入した[2]。日本海軍の風船爆弾は「八号兵器」と呼称し、潜水艦に搭載してアメリカ大陸沿岸部まで進出し、放球する方式[1]を想定していた。秘匿名称は「ふ号兵器」[2][8]

アメリカ合衆国海軍省は1945年(昭和20年)5月下旬に「日本の風船爆弾に注意」と公表した[注 1]。なお終戦間際に陸軍登戸研究所神奈川県)へ配属された元職員は、「風船爆弾」は戦後の用語で、「ふ号」「風船」は防諜のための符号であり、当時の呼称は「気球爆弾」、「風船爆弾」は戦後のマスコミによる造語と述べている[10]名古屋陸軍造兵廠学徒勤労動員された女学生は「今日から君たちは風船爆弾を作ることになる」と訓示されたと回想している[3]
歴史
開発当初「軍用気球の歴史」も参照

風船爆弾は、陸軍少将であった草場季喜によれば、1933年(昭和8年)には自由気球に爆弾を懸吊し兵器として使用する着想があったと伝えられる[11]。想定地域は満州東部国境地域で、ソビエト連邦ウラジオストクを攻撃しようという作戦だった[1]

ほぼ同時期に陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て「風船爆弾」での空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかったので、軍籍を離れ、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でコンニャク糊を塗布した和紙「メイジン紙」を使用することは近藤の想定の中にあった。1939年(昭和14年)には関東軍に持ちこまれ、近藤は極秘研究主任となる[12]。1940年(昭和15年)に近藤は病死するが研究は進められ、陸軍登戸研究所で開発されている。試験の責任者は佐藤賢了であった[13]。和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器で、満州事変後の1933年(昭和8年)頃から関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用として研究され、小型の気球爆弾の研究命令は1939年(昭和14年)8月に、ふ号兵器としては1943年(昭和18年)8月に研究命令が出された[11]

気球に爆弾を搭載して敵国に放球するという戦術は、すでに連合国陣営イギリスが先鞭をつけていた。1942年(昭和17年)3月にイギリス軍ナチス・ドイツに対しアウトワード作戦(Operation Outward)を敢行し、それなりに戦果を上げる。同年8月15日大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望した[14]。その中に米国本土を攻撃可能な「超遠距離飛行機」「特殊気球(フ号装置)ノ能力増大」という項目があった[14]。前者が超重爆「富嶽」、後者が風船爆弾である[14]。同年秋頃、偏西風を利用して気球を放ち、アメリカ大陸本土を攻撃しようという計画が中央気象台を中心として日本陸軍と日本海軍に持ち込まれ、別個に開発が始まった[1][15]
日本陸軍

日本陸軍は、1942年に日本海軍によって行われ成功裏に終わった潜水艦艦載機によるアメリカ本土空襲に次いで、アメリカ本土に直接攻撃することで心理的動揺を誘えること、材料が和紙とコンニャクのため他軍需品と競合しないことから、風船爆弾の実用化に熱意を注いだ[2]。「ふ号兵器」の骨子は、日本の高層気象台(当時茨城県筑波郡小野川村〈現・つくば市〉)の台長だった大石和三郎らが世界で初めて発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うものであった[8]

気球の直径は約10m、総重量は200kg。兵装は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発である。ジェット気流で安定的に米国本土に送るためには夜間の温度低下によって気球が落ちるのを防止する必要があった。これを解決するため、気圧計バラスト投下装置が連動する装置を開発した。兵装として爆弾を2発としたものや焼夷弾の性能を上げたものも発射された。爆弾の代わりに兵士2-3名を搭乗させる研究も行われた。

また、陸軍登戸研究所において研究されていた生物兵器炭疽菌ペスト等)の搭載が検討され、登戸研究所第七研究班はふ号兵器用の牛痘ウイルス20トンを製造して使用可能な状態まで完成していた[16]が、昭和19年10月25日の梅津美治郎陸軍参謀総長上奏に際して、天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった[17]

1943年(昭和18年)8月、陸軍兵器行政本部は第九陸軍技術研究所に対し、風船爆弾(フ号兵器)による米国本土攻撃の研究を命じた[14]


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