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風呂(ふろ)とは、身体の洗浄や温浴・入浴するための設備。浴室・浴場ともいう。 元々は衛生上の必要性や、宗教的観念から古くから水のある場所で水浴を行ってきたが、温泉を利用した寒冷を払拭するためや、一層の新陳代謝や老廃物の除去や排出をするため、温かい水や蒸気を利用して、温泉のない場所でも温浴が行われるようになった。5000年前のインダス文明のモヘンジョ=ダロや都市の中心に大規模な公衆浴場が完備していた。風呂の起源として現在確認されるものでは紀元前4000年のころメソポタミアで、払い清めの沐浴のための浴室が作られ、紀元前2000年頃には薪を使用した温水の浴室が神殿に作られていた。同時にギリシア文明では、現在のオリンピック精神の元となった「健全な精神は健全な肉体に宿られかし」との考えから、スポーツ施設に付帯して沐浴のための大規模な公衆浴場としての水風呂が作られていた。紀元前100年のローマ帝国の時代になると、古代ローマの公衆浴場として知られる豪華な公衆浴場と、湯を沸かす際の熱を利用したハイポコーストという床暖房設備が発達し、地中海世界では現在の日本でも見られるような、社交場としての男女混浴の公衆浴場が楽しまれていた。ハドリアヌス帝の頃に男女別浴になった[1]。モヘンジョダロの大浴場 しかし、キリスト教の浸透にともない裸で同一の場所に集うことが忌避され、廃れていった[2]。ローマ帝国の領土を受け継いだヨーロッパの地では、13世紀頃までは、辺境の地であっても入浴習慣が普及していたが、教会に行くための清めとして、大きめの木桶に温水を入れて身を簡単にすすぐ行水の様なものだった。都心においては公衆浴場があり、住民は週に1・2度程度、温水浴や蒸し風呂を楽しんだといわれる。しかし、男女混浴であったため、みだらな行為や売春につながり、それに@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}キリスト教の観念が加わり廃れていった[要出典]。それに拍車をかけるように、14世紀にはペストの流行により、公衆浴場はもちろんのこと入浴自体も「ペスト菌を積極的に体に取り込んでしまう」といった間違った解釈がなされ、風呂といった習慣自体が忌避され、地中海やヨーロッパから風呂文化が縮小していった。一方、かつてのローマ帝国領の東部に当たる中近東では入浴文化が受け継がれ、ハンマームと呼ばれる公衆浴場が住民の社交場としての役割を担っていた。紀元前2600年頃のインダス文明のモヘンジョダロや、ハラッパー等の都市には大規模な公衆浴場が完備していた。古代インド十六大国のマガダ国の首都王舎城(現・ビハール州ラージギル)にあった仏教最初の寺院である竹林精舎の近くに、温泉がある仏教僧院 (Tapodarama) があった。湯治を目的としていたと思われる。現在、跡地にはヒンドゥー寺院が建てられているが、温泉は今も健在である。 ヨーロッパでは医学の進歩に伴い、18世紀には「入浴が積極的に病原菌を体に取り込む」といった解釈が否定され、むしろ健康の上で好ましいと見なされるようになった。それに伴い遠隔であった入浴の習慣が積極的に行われるようになったが、温水に浸かる風呂ではなくシャワーとして温水を浴びる習慣が普及していった。現在の欧米でも浴槽のない風呂場もあり、温水の風呂に浸かるのは月に1・2度程度が一般的となっている。 もともと日本では神道の風習で、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている[3]。 仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。風呂は元来、蒸し風呂を指す言葉と考えられており、現在の浴槽に身体を浸からせるような構造物は、湯屋・湯殿などといって区別されていた。 平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。 鎌倉時代には東大寺復興に尽力した重源による施浴にて鉄湯船が見られる。これは南都焼討で焼失した東大寺伽藍の再建のため巨木の用材を求めた重源が1186年頃に周防国に至り、木材伐り出しに従事する人夫の為に行われた湯施行である。重源が開山した阿弥陀寺の旧鉄湯舟残欠は渡宋経験のある重源が南宋で知り得たものを国内で再現したもので[4]、キッチン・バス工業会ではこれを長州風呂の元祖と紹介している[5]。現存する鉄湯船は1197年に大仏鋳造に従事していた河内鋳物師の草部是助らにより東大寺に奉納された物、1290年に同じく河内鋳物師の山河貞清による物が成相寺と智恩寺にみられる。 浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。戸棚風呂と呼ばれる下半身のみを浴槽に浸からせる風呂が登場。慶長年間の終わり頃に、すえ風呂、または水(すい)風呂と呼ばれる全身を浴槽に浸からせる風呂が登場した。入浴の始めは風呂に入る前に「かけ湯」をして、湯船に入った後に全身を洗い、風呂から上がる時にお湯を浴びて「あがり湯」で体を清める様式が広く習慣化されている。 日本語の風呂の語源は、2説ある。 英語の"bath"は、イギリスにある温泉場の街の名前、バース(Bath)が語源という俗説があるが、日本の「温泉町」という地名と同様、温泉があるから"Bath"と呼ばれるようになったのである。英語"bath"にあたる「温浴」もしくは「温めること」を意味する名詞はゲルマン古語に既にあり、さらに遡れば遠く印欧祖語に由来すると考えられる。
歴史
日本の風呂相国寺の浴室『宣明』(応永7年 (1400年) 頃の創建。現在のものは慶長4年 (1596年) の再建)温泉を利用した風呂の例
大深温泉野外入浴セット2型(陸上自衛隊)
語源
もともと「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じたという説
抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から来たという説