「イ・ジョンボム」はこの項目へ転送されています。映画監督については「イ・ジョンボム (映画監督)」をご覧ください。
李 鍾範(イ・ジョンボム)
Lee Jong-Beom2015年3月24日
2015年MBCのMLB&KBO記者懇談会において
基本情報
国籍 大韓民国
出身地全羅南道光州広域市
生年月日 (1970-08-15) 1970年8月15日(53歳)
身長
体重178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手、遊撃手、一塁手、三塁手
プロ入り1992年 KBO1次ドラフト
初出場KBO / 1993年4月10日
NPB / 1998年4月3日
最終出場KBO / 2011年10月4日
NPB / 2001年4月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
光州第一高等学校
建国大学校
ヘテ・タイガース (1993 - 1997)
中日ドラゴンズ (1998 - 2001)
起亜タイガース (2001 - 2012)
指導歴
ハンファ・イーグルス (2013 - 2014)
野球大韓民国代表 (2017 - 2018)
LGツインズ (2019)
中日ドラゴンズ (2020)
LGツインズ(2021 - 2023)
国際大会
代表チーム大韓民国
WBC2006年
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
イ・ジョンボム
各種表記
ハングル:???
漢字:李鍾範
発音:イ・ジョンボム
日本語読み:り しょうはん
英語表記:Lee Jong-Beom
テンプレートを表示
李 鍾範(イ・ジョンボム、朝: ???、1970年8月15日 - )は、大韓民国の全羅南道光州広域市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、野球指導者・解説者。右投げ右打ち。日本プロ野球での登録名の読みは、「リー・ジョンボム」(漢字は同じ)。2020年に中日ドラゴンズに研修コーチとして所属した。
本貫は咸平李氏
[1]。建国大学校野球部在籍中の1992年にアマチュア野球の最優秀選手賞を受賞[2]。
1993年、ヘテ・タイガースに入団。1年目からレギュラー選手として出場。
1994年には首位打者、加えて同年と1996年、1997年は盗塁王を獲得するなど、主力の一人として活躍。
1997年にはKBO初のトリプルスリー(打率.324、30本塁打、64盗塁)を達成している。 1998年、移籍金4億5000万円、年俸8000万円(推定)で中日ドラゴンズへ移籍。 バットコントロールの良さや盗塁王3回の実績を評して、打席は違えど『韓国のイチロー』と呼ばれた。移籍1年目の開幕戦にはスタメンで出場を果たした。俊足好打の1番打者であったが遊撃手の守備には問題が多くこの年67試合で12失策を数えた。しかし、守備範囲は広く打球を諦めない姿勢は星野好みであった。また、盗塁も日本の投手の技術の高さ(クイック投法など)を前に、ヘテ時代のようにはできなかった。6月23日に、阪神タイガースの川尻哲郎から右肘に死球を受け、骨折し長期離脱。シーズン中に復帰するものの、死球への恐れからか以前のような思い切りの良さが消えてしまった。リハビリ中から守備の不安を解消するため、俊足を生かして外野手に転向。 1999年のリーグ優勝にも主力選手として出場したが、外国人枠を使うことを考えると成績は芳しくなかった。同年の福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは最後の打者になった(第5戦、ロドニー・ペドラザから三振)。 2000年は開幕二軍スタートだったが、新外国人デーブ・ニルソンの不調で、一軍に昇格。 2001年には強力外野陣に割って入れず、選手起用を不満としてシーズン途中で退団。 その後帰国し、ヘテ・タイガースを買収した起亜タイガースに復帰した。 ポジションはヘテ時代の遊撃手ではなく、日本での経験を生かし外野へ転向し、主力として活躍した。2004年には7年ぶり4回目の盗塁王のタイトルを獲得。 2006年、WBC韓国代表に選出されて主将を務め、大会での活躍が認められ外野のベストナインに選ばれた。しかし、シーズン中は考えられない大不振に陥ってしまい、二軍落ちも経験してしまう。結局この年は打率.242、本塁打1本、打点21と打撃三部門だけでなく、盗塁(10)・長打率・出塁率などが、入団以来最低の記録となった。 2007年は、シーズン当初は2番だったが、調子が上がらず打率も1割台に低迷して9番に降格となった。5月17日の現代ユニコーンズ戦で実に1年ぶりの本塁打を放った。しかし調子は一向に上がらず、このシーズンを84試合、打率.174、1本塁打、18打点、3盗塁と、前年の成績を更に下回り、いよいよ引退かと囁かれた。 2008年の契約を、前年から60%もの大幅ダウンとなる2億ウォンで結んだ。同年5月の月間MVPを獲得。計110試合に出場し復活をアピールしたが、オフには引退し指導者への転身を球団から勧められた。 2009年も前年と現状維持の年俸2億ウォンで契約を結んだ。 2009年は123試合に出場し、12年ぶりの公式戦、韓国シリーズ優勝を飾ったチームの快進撃に貢献し、韓国プロ野球史上2人目の通算500盗塁を達成した。起亜が優勝を決めた韓国シリーズ第7戦では、試合後に選手達から胴上げされた。 2010年、日韓通算2000本安打を達成した。 2011年からは韓国プロ野球界最年長選手となった。 2012年は海外春季キャンプも順調に消化し、示範競技(日本で言うところのオープン戦に相当)にも出場していたが、宣銅烈監督など首脳陣は開幕一軍から外れ、二軍でプレイングコーチに就任することを提案した。しかしこれを拒否し、公式戦開幕の1週間前の3月31日、突如現役引退を発表した。起亜入団後引退までつけていた背番号7は、宣銅烈に次いで球団史上2人目となる永久欠番となった。4月5日、起亜からの指導者研修の提案を断り、引退後は当面の間解説者など目立った活動をしないことを公式記者会見の場で明らかにした。2012年5月26日、起亜の本拠地・光州無等総合競技場野球場で引退セレモニーが行われた。すでに引退の手続きを取っていたため試合には出場しなかったが、この日すべての起亜の選手が背番号7の李鍾範の名前が書かれたユニフォームを着用した。
中日時代
起亜時代起亜タイガース時代
現役引退後