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顧祝同
プロフィール
出生:1893年1月9日
(清光緒18年12月22日)
死去:1987年(民国76年)1月17日
中華民国台北市
出身地: 清江蘇省淮安府安東県
職業:軍人
各種表記
繁体字:顧祝同
簡体字:?祝同
?音:Gu Zhutong
ラテン字:Ku Chu-t'ong
和名表記:こ しゅくどう
発音転記:グー ヂュートン
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顧 祝同(こ しゅくどう)は、中華民国の軍人。最終階級は国民革命軍・中華民国陸軍一級上将。陸軍総司令や参謀総長、国防部長などを歴任した。字は墨三。 地主の家庭に生まれる。1908年(光緒34年)、南京陸軍小学第5期生として入学した。辛亥革命が勃発すると、革命派の北伐先遣隊に参加した。袁世凱が臨時大総統に就任すると、南京陸軍小学に復学している。1913年(民国2年)7月の二次革命(第二革命)にも革命派として参戦したが、敗北後に帰郷した。 1914年(民国3年)、湖北陸軍第2予備軍官学校で2年学ぶ。その後、保定陸軍軍官学校第6期歩兵科に進学した。1919年(民国8年)の卒業後は、長江上遊陸軍総部や湖南省で軍務についた。しかし、翌年に病のため離脱している。 1921年(民国10年)、孫文が北伐を開始すると、顧祝同はこれに参加した。1924年(民国13年)には、黄埔軍官学校創設事業に取り組み、開校後は戦術教官となっている。以後、中国国民党による様々な戦いに従軍して軍功を重ねた。1926年(民国15年)12月には、福建省遠征での功績により、国民革命軍第3師師長に昇進した。1927年(民国16年)3月、軍を率いて南京に戻る。 北京政府軍との戦いでやはり軍功をあげて、同年秋には第9軍軍長に昇進した。その後も北伐で転戦し、1928年(民国17年)5月には、済南に駐屯した。しかし済南事件の勃発にともない、徐州へ撤退している。 北伐終了後は、軍縮のために、顧祝同はいったん第1軍第2師師長となる。しかし、反?介石派との内戦で功績をあげ、1929年(民国18年)10月には第1軍軍長となった。その翌年10月には、8個師を率いる第16路軍総指揮となった。さらに、陸海空軍総司令部洛陽行営主任に異動している。 1931年(民国20年)5月には、南京警衛軍軍長兼第1師師長に任命された。このときに顧祝同は、ドイツ人顧問を招聘したり、ドイツの兵器を導入したりして、国民革命軍の強化に努めた。
事跡
初期の活動
国民革命軍の重鎮として