顕如
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顕如
天文12年旧1月7日 - 天正20年旧11月24日
1543年2月20日[注釈 1] - 1592年12月27日
顯如像
幼名茶々
法名顯如
院号信樂院
諱光佐
尊称顯如上人
生地大坂
没地西本願寺
宗旨浄土真宗
宗派本願寺派(後の浄土真宗本願寺派、後の真宗大谷派
寺院大坂本願寺、西本願寺
証如
弟子教如顕尊准如
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顕如(けんにょ、正字体:顯如)は、戦国時代から安土桃山時代浄土真宗浄土真宗本願寺派第11世宗主・真宗大谷派第11代門主。大坂本願寺住職[1]

顕如はで、は光佐(こうさ)、法主を務めた寺号「本願寺」を冠して本願寺光佐(ほんがんじ こうさ)とも呼ばれる。院号は信楽院(しんぎょういん、正字体:信樂院)。法印大僧正准三宮。父は第10世宗主の証如関白内大臣九条稙通猶子。室は左大臣三条公頼三女の如春尼。長男は真宗大谷派第12代門首の教如、次男は真宗興正派第17世門主の顕尊、三男は浄土真宗本願寺派第12世宗主の准如

織田信長と敵対した後は全国の本願寺門徒に信長打倒を呼びかけ信長包囲網の一角となって、10年以上にわたって激しい攻防を繰り広げたことで知られる。
来歴
誕生から継承

天文12年(1543年)1月6日[1]または1月7日、本願寺第10世・証如の長子として誕生。母は庭田重親の娘・顕能尼[注釈 2]

天文23年(1554年)8月12日、父である証如が重態となり、急遽得度が行われることになった。顕如は父・証如が九条家猶子となったことを先例として前関白・九条稙通の猶子となり[2]、12歳で証如を師として得度した。

翌13日、証如の死により本願寺を継職し、祖母・鎮永尼の補佐を受けて教団を運営した。
教団の最盛期を築く

弘治3年(1557年)4月17日、六角定頼猶子(実父は三条公頼)の如春尼と結婚した[注釈 3]。如春尼の実の姉は武田信玄正室三条夫人であり、信玄と顕如は義兄弟にあたる。

政略結婚[注釈 4]とはいえ、二人の夫婦仲は良く、結婚31年目の天正16年(1588年)の七夕には、いくとせもちぎりかわらぬ七夕の、けふまちへたるあふせなるらん  顕如いくとせのかはらぬ物を七夕の、けふめづらしきあうせなるらん  如春尼

と歌を詠み合っている。

永禄2年(1559年)、正親町天皇綸旨により本願寺は門跡となる。本願寺は証如・顕如と2代にわたって摂関家である九条家の猶子となって門跡に相応しい格式を得たとして門跡への昇格を求めていた。折しも青蓮院門跡である尊朝法親王が幼少で門跡の職務を行い得なかったため、青蓮院の異論が出されないまま本願寺の要求が認められたと考えられている[4]

永禄3年(1560年)には院家として河内国顕証寺播磨国本徳寺三河国本宗寺を指定し、坊官下間氏を任じる。

永禄4年(1561年)には僧正に任じられている。

顕如の時代、本願寺教団は、証如の時代以来進めてきた門徒による一向一揆の掌握に務める一方、管領家であった細川京兆家や京の公家との縁戚関係を深めており、経済的・軍事的な要衝である大坂本願寺(石山本願寺)を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、大名に匹敵する権力を有するようになり、教団は最盛期を迎えていた。
家臣団

院家一家衆坊官衆、御堂衆等のほか、「中世本願寺の寺院組織と身分制」によると、本願寺譜代の家臣である下間氏を核として、三綱殿原中居・綱所といった所務諸職が設けられていた。
院家

本願寺が門跡寺院となったことで、本願寺一族一家衆の寺が院家となった。『戦国期本願寺「報思講」をめぐって?二、戦国期本願寺報恩講の展開l大坂時代・親鷲三百回忌』によると、顕如が門跡となった翌永禄3年(1560年)まず本宗寺証専・願証寺証意・顕証寺証淳が院家となり、続いて、本山儀式役に重き位置を占める順興寺実従・教行寺実誓・慈教寺実誓・常楽寺証賢が院家となった。

天文23年(1554)8月に証如が没し、顕如が宗主となるが、同年報思講では一家衆宿老実従が儀式主宰者を代行している。翌年には顕如の出仕が始まるが、当初は実従、祖母慶寿院の補佐をよく受けていたことが窺える。また院家の中でも特に実従が宿老と見なされていたことがわかる。
一家衆

一家衆とは、本願寺歴代法主の親族集団の総称である。また一家衆から院家が指定されたため、ほぼ院家と同様である。院家となった、本宗寺証専・願証寺証意・顕証寺証淳・順興寺実従・教行寺実誓・慈教寺実誓・常楽寺証賢の他に、光教寺顕誓、願得寺実悟が、一家衆である。後に天正4年(1576年)、願得寺も院家に指定される。
坊官衆

下間氏は蓮如時代以後、代々本願寺の侍臣を務めてきたため、筆頭坊官ほか下間氏の多さが目立つ。

主な坊官は以下の通り。軍事指揮官として各地に派遣される者が多かった。

下間頼照下間頼廉下間仲孝下間頼龍下間頼良下間頼資下間頼旦、下間頼成、下間頼総下間頼芸下間頼俊下間頼純七里頼周杉浦玄任、坪坂包明、川那辺秀政
御堂衆

中世本願寺における御堂衆堂衆とも言われる)とは、御堂の荘厳や儀式の執行に従事し、さらには法義に精通し、清僧であることが求められた身分で、初期は下間氏を中心に御堂衆集団が形成されていたが、次第に一般坊主衆から選出されるようになり、大坂本願寺時代には、儀式執行に大きな権限を掌握するようになっていた。

『戦国期本願寺「報思講」をめぐって?御堂衆について』によると、御堂衆は「六人供僧」とも言われるが、史料上、天文4年(1535年)段階では3人(西宗寺祐信・浄照坊明春・賢勝)、天文15年(1546年)までは4人(浄照坊・賢勝・超願寺・盛光寺祐心)しか確認できず、翌年には逆に8人に倍増している(前掲4人、明覚寺行心・九条西光寺・光徳寺乗賢・正誓)。永禄4年(1561年)段階では浄照坊明春・法専坊賢勝・光徳寺乗賢・明覚寺行心・教明・教宗の6人が御堂衆とされる(『今古独語」)。
殿原・青侍

「中世本願寺の寺院組織と身分制 ? 寺務と寺官について」によると、青侍のうち、受領・官途名を授けられたものが殿原と考えられる。殿原・青侍となる家としては、下間家のほか七里、円山、寺内、八尾、平井、川那部、八木、松井家等があった。殿原となる諸家のうちでも下間家のみが三綱の資格を有した。本願寺史料研究所の、「本願寺御家中衆次第について」には、下間氏とももに、円山、寺内、平井、八木、松井等の名が一覧できるが、これらは殿原または青侍と考えられる。
坊主衆

「中世本願寺の寺院組織と身分制?坊主の位置」によると、坊主は法名を授けられ、寺号を許され、その住持職に任じられる。また、宗教儀式に列座する資格を有するが僧位僧官は帯さない。無位無官かつ呼び名を持たないため、寺号・坊号を呼び名とする。


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