顔恵慶
[Wikipedia|▼Menu]

顔恵慶
駐ドイツ公使就任時(1913年)の顔恵慶
プロフィール
出生:1877年4月2日
光緒3年2月19日)[1]
死去:1950年5月24日
中華人民共和国上海市
出身地: 江蘇省松江府上海県虹口
職業:外交官・政治家・教育家
各種表記
繁体字:顏惠慶
簡体字:?惠?
?音:Yan Huiqing
ラテン字:Yen Hui-ch'ing
注音二式:Yan Hueiching
和名表記:がん けいけい
発音転記:イエン フイチン
英語名:Dr. W.W. Yen
テンプレートを表示

顔 恵慶(がん けいけい)は末、中華民国中華人民共和国外交官政治家教育者北京政府では外交総長など閣僚を歴任し、一時は国務総理臨時執政代行もつとめた。国民政府でも国際連盟中国代表団首席代表、駐大使など要職を歴任した。は駿人。弟に鉄道技術者の顔徳慶、堂弟(父方の従弟)に医学分野の教育家である顔福慶がいる。
事績
清末の活動

聖公会牧師顔永京の息子として生まれる。顔恵慶は地元上海の聖ヨハネ書院、英華書塾、同文書院で学ぶ。1895年光緒21年)、アメリカへ留学、1897年(光緒23年)にバージニア大学に入学した。在学中はキリスト教会の学校で教師をつとめたり、中国駐米公使館で事務に携わったりしている。1900年(光緒26年)6月、バージニア大学を卒業し、8月に帰国した。帰国後は上海聖ヨハネ大学で6年以上教師をつとめる。1905年(光緒31年)、上海『南方報』英文版の編集者をつとめ、さらに『英華大辞典』の主編者となり、これを商務印書館から刊行した。1906年(光緒32年)9月、北京で留学生試験を受け、一等第二の優秀な成績をあげ、訳科進士とされている。[2][3][4]

1907年(光緒33年)冬、顔恵慶は中国駐米公使館二等参賛に任ぜられ、公使伍廷芳に随従してアメリカに向かった。米国では外交事務に携わる傍ら、ジョージ・ワシントン大学国際法を学び、さらにアメリカ国際法学会に加入している。1910年宣統2年)帰国し、外務部主事、外務部参議をつとめた。辛亥革命が勃発すると、顔は袁世凱と共に各国の駐華公使を訪問してその支持を獲得し、袁から信任され外務部左丞に抜擢されている。[5][3][4]
民国初期の活動

中華民国成立後、最初に組織された唐紹儀内閣で顔恵慶は外交部次長に就任する。翌1913年民国2年)春、ドイツスウェーデンデンマークの三国公使に任ぜられ、ベルリンに駐在した。1919年(民国8年)のパリ講和会議では中国代表団顧問をつとめている。翌年夏、任務を終えて帰国した。1920年(民国9年)8月、大総統徐世昌の命により、外交総長に任ぜられた。路線としては基本的に親英米路線をとったが、日本との交渉も重視しており、山東問題をめぐって交渉を重ねている。翌1921年(民国10年)5月には、ドイツとの間で国交を回復した。11月からのワシントン会議では、現地での交渉を施肇基顧維鈞王寵恵らに委ねつつ、様々な指示を送っている。その後、外交総長は1922年(民国11年)8月までつとめた。[6][3][4]

1922年1月から1926年(民国15年)6月まで、北京政府内における各派争いの中にありながら、顔恵慶は農商総長・外交総長・内務総長に加え、臨時を含めて国務総理を4度つとめた。また1926年5月、臨時執政の段祺瑞が失脚した際には顔が臨時執政職を代行し[7]、1か月ではあるが国家元首の地位にあった。奉天派張作霖が大元帥となると、顔は張への協力を望まず、天津に一時引退した。以後、しばらくは金融や慈善の分野での活動に専念している。[8][3][4]
国民政府での活動顔恵慶別影(『最新支那要人伝』1941年)

1931年(民国20年)9月、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、顔恵慶は国民政府外交部長王正廷の要請に応じて南京に赴き、対日特種委員会委員として復帰した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef