額田部(ぬかたべ)とは、古代日本の部(名代)の一つ。 額田部のルーツは応神天皇の皇子、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)の名代であるとも、田部の一種であるとも、554年(欽明天皇15年)に誕生した額田部皇女(のちの推古天皇)の資養や王宮の運営の基盤であるとも言われているが、部民制は5世紀後半、雄略天皇の時代に施行されたとする説が通説となっており、また大和政権と出雲東部の勢力情況からして、5世紀のものとは想定しにくいため、後者が有力であるとする説がある。一方、額田部は額田大中彦皇子の名代であって、推古天皇のために置かれたとする説は本末転倒であるとの批判や[1]、名代ではなく製鉄・鍛冶部族のことを指すとする説もある[2]。 『日本書紀』巻第十一には、 額田大中彦皇子が大和の屯田(みた)と屯倉を管掌しようとして、屯田司である出雲臣の祖先である淤宇宿禰(おうのすくね)に、「この屯田はもとから山守の地であって、今から自分が治めるから、お前は治めてはならない」と言ってきて、淤宇宿禰がそのことを応神天皇の皇太子である菟道稚郎子に奏上した、という事件が描かれている。その後、天皇のものである、ということで決着し、大中彦皇子は二の句が継げなかった、という[3]。以上の記述からも、大和政権と出雲勢力との勢力の緊張状態を伺うことができる。 額田部はほぼ全国に分布しており、中央の氏族は連姓、地方では、君・臣・直・首姓のものが統轄していたという。島根県岡田山古墳の1号墳からは「各田了臣」と銘文が記された円頭大刀が出土されている。古墳のある松江市大草町
概要
奈良時代の橘奈良麻呂の乱の際の佐伯古比奈への尋問によると、一味の賀茂角足は、高麗福信、奈貴王、坂上苅田麻呂、巨勢苗麿、牡鹿嶋足を招いて、(現在の大和郡山市と比定される)「額田部」の屋敷で酒宴をしたという[6]。この額田部は額田部宿禰一族の本拠地でもある。
脚注[脚注の使い方]^ 告井幸男「名代について
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『岩波日本史辞典』p913、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
『日本書紀』(二)、岩波文庫、1994年
『日本書紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
『続日本紀』3 新日本古典文学大系14 岩波書店、1989年 - 1998年
『続日本紀』全現代語訳(中)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年、1995年
『日本の古代1 倭人の登場』森浩一:編より「『倭』から『ヤマト』へ」文:岸俊男、中央公論社、1985年
『日本の古代11 ウヂとイエ』大林太良:編より「10東と西の豪族 - 畿内と西国の豪族 国譲り伝承≠ニ出雲臣」文:八木充、中央公論社、1987年
『日本の古代14 ことばと文字』岸俊男:編より「1新発見の文字資料?その画期的な役割」文:和田萃、中公文庫、1996年
『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
関連項目
部民制
額田部氏 - 額田部比羅夫/額田部広麻呂
額田大中彦皇子
出雲国造 - 淤宇宿禰
岡田山古墳
推古天皇
藤原広嗣の乱
橘奈良麻呂の乱
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