人口42,236人、面積56.72km²、人口密度745人/km²。(2024年3月1日、推計人口)
以下の1町を含む。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 平成22年(2010年)の国勢調査に基づく面積は394.42ku、人口は307,442人。[1] 郡名は出土木簡によると、古代では各田・農多とも表記されている。古代氏族の額田部(ぬかたのべ)に由来するという説のほか、ぬかるみの多い土地を意味する古語が転じたという説など諸説ある。戦国時代以降西三河における一大拠点のひとつとして台頭し、徳川家康の出身地となった。江戸時代には岡崎藩をはじめ奥殿藩や西大平藩などが設置されたほか、東海道の宿場町も設けられ郡域は発展した。
幸田町(こうたちょう)
郡域
岡崎市の大部分(矢作川以西および赤渋町、法性寺町、上和田町、宮地町、井内町、野畑町、下和田町、坂左右町、国正町、定国町より南西を除く)
豊田市の一部(下山田代町・田折町・蕪木町・蘭町)
幸田町の大部分(野場・永野・須美・六栗・逆川・上六栗・桐山を除く)
歴史
近世以降の沿革
寛永15年(1639年) - 宝飯郡栃原村が本郡に編入[1]。
寛永19年(1642年) - 宝飯郡荻村が本郡に編入[2]。
天和元年(1689年)頃 - 栃原村が乙女川
『旧高旧領取調帳』に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地[3]が存在。 (28町1駅183村)
幕末の知行
知行村数村名
幕府領中泉代官所1駅
5村上細川村、市場村、●藤川駅[4]、●明見村、鶫巣村、●芦谷村
旗本領37村●真福寺村、保久村、田代村、富尾村、日影村、丸塚村、平針村、○蓬生村、柿平村、下衣文村、竹沢連村、笠井村、○生平村、赤田和村、大林村、丸平新田、●○竜泉寺村、●尾尻村、蓑川村、●雨山村、栃原村、●高隆寺村、鹿勝川村、馬頭村、保母村、丸山村、●鉢池村、●本宿村、横落村、荻村、坂崎村、●深溝村、土呂村、大谷村、●大草村、高須村、永井村
中泉代官所・旗本領8村下細川村、寺平村、柳田村、岩堀村、長嶺村、北鷲田村、西脇村、高力村
藩領三河岡崎藩20町
84村●○祐金町、横町[5]、十王町、●投町[6]、六地蔵町[5]、能見町[7]、上肴町[5]、籠田町[5]、久右衛門町、連尺町[5]、●田町[5]、伝馬町[5]、材木町[5]、両町[8]、●裏町、下肴町[5]、●伊賀村、井田村、●八町村、欠村、●能見村、松葉町、板屋町[5]、唐沢町、●岩津村、八ツ木村、大樹寺村、上之里村、藪田村、日名村、東蔵前村、西阿知和村、東阿知和村、仁木村、上田代村、蕪木村、折地村、百々村、磯部村、西蔵前村、外山村、●米河内村、切山村、●上大門村、大内新田、中大門村、下大門村、安戸村、一色村、蘭村、小丸村、新居村、蔵次村、渡通津村、大ヶ谷村、北須山村、駒立村、柳村、●桜井寺村、切越村、須淵村、栗木村、田口村、箱柳村、法味村、高薄村、南須山村、大河村、小呂村、友久村、茅原沢村、秦梨村、古部村、○鍛治屋村、大山村、上毛呂村、下毛呂村、中畑村、板田村、岩谷村、大井野村、小楠村、桃ヶ久保村、●名ノ内村、麻生村、伊賀谷村、中保久村、土村、●池金村、●舞木村、●岡村、洞村、●下六名村、●久後村、下明大寺村、●上明大寺村、柱村、若松村、戸崎村、福島新田、羽根村、●針崎村、上六名村、国崎町[9]