領国貨幣
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領国貨幣(りょうごくかへい)とは、戦国時代から江戸時代初期に掛けて、各地大名が領内通用として鋳造を命じた金貨および銀貨であり、領国金銀(りょうごくきんぎん)とも呼ばれる。

地方貨幣というべきものでもあるが、地方貨幣は諸により主に幕末に盛んに発行された領内通用貨幣の意味として用いられているため区別する。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「.mw-parser-output .jisx0212font{font-family:"Hiragino Sans Pr6N","Toppan Bunkyu Gothic","Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ Pr6N W3","A-OTF 新ゴ Pr6N R","源真ゴシック Regular","源ノ角ゴシック JP Normal","Source Han Sans JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","小塚ゴシック Pr6N R","KozMinPr6N-Regular","メイリオ","Meiryo","Meiryo UI","游ゴシック","游ゴシック体","VL Pゴシック","MS Pゴシック","MS PGothic","小塚ゴシック Pr6N M","小塚ゴシック Pr6N","KozGoPr6N-Medium","A-OTF 新ゴ Pr6N","Arial Unicode MS",Code2000}两」は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(JIS X 0212(補助漢字))が含まれています(詳細)。
概要蛭藻金

領国貨幣は主に商取引に用いられた地方極印銀などをいい、また戦国時代に手柄を立てた者に対する恩賞として用いられた金銀貨も含める場合が多い。

16世紀中ごろすなわち戦国時代より戦費調達および賞賜のための需要が拡大し、日本各地において金山および銀山の開発が活発となり増産が行われ、特に銀は世界一、二位を競うほどの産出高を誇るようになり[1]、全世界の約三分の一を産出したと推定されている。

奥州では古くから砂金が産出し、量目に応じて取引に使用されていたが、やがてこれを鎔融して極印を打った練金(ねりきん)あるいは竹流金(たけながしきん)としたものが用いられるようになり、さらに内部まで金でできていることを証明するため、板状に打ち延ばした蛭藻金(ひるもきん)などの判金が製作されるようになり、当初これらは秤量貨幣として通用した[2][3]

また、西日本から北陸東北各地には銀山が多く点在し、ここから産出される灰吹銀に極印を打った極印銀(ごくいんぎん)および小額取引のためにそれを切遣いした切銀(きりぎん)が秤量銀貨として取引に用いられるようになった[3]。これらの極印銀は『諸国灰吹銀寄』などの文献に記載されており稀少なものが多いが、その内いくつかは造幣博物館に展示されている。灰吹銀についても打ち延ばされ古丁銀が製作されたが、銀の場合は不純物などの関係から脆くひび割れ易いため金のように薄くは延ばせず、丁銀譲葉状あるいはなまこ型のものとなった。甲州一分金

この様に領国内にある金山および銀山から産出される材料を元に、金屋(きんや)および銀屋(ぎんや)といった業者により金貨および銀貨が鋳造されたが、これらは火縄銃などの兵器および、生糸高麗人参などの輸入代金の支払いに当てられ、多量に海外へ流出した。また戦国時代は各地金山および銀山の獲得競争の時代でもあった。

石見銀山を領内に抱える毛利元就は石州丁銀などを発行し、黒川金山など多くの金山を抱える武田信玄による甲州金は、徳川幕府小判の通貨体系(、分、朱)に引き継がれ、上杉謙信も天正越座金を発行したとされるが[4][5]、いずれも現存数は稀少である。また、豊臣秀吉天正大判および天正通寳などいわゆる太閤金銀銭を発行したが、全国統一を前提とした大判、丁銀などは領国貨幣に含めないことが多い。この様な貨幣は市場に出ると当時としては余にも高額なものであったため、金屋および銀屋などの両替商に持ち込まれ、に替えて使用されることが多かった。武蔵墨書小判

最終的に徳川家康による領国貨幣とも言うべき慶長金が全国統一により公鋳貨幣としての地位を築くことになるが、多額に上る慶長金銀の海外流出などにより地方まで充分に行き渡らなかったため通貨の全国統一を達成するには至らず、依然、各地銀山から発行される極印銀などの領国貨幣が並行して通用し、国内で不足気味の慶長金銀を補佐する役割を果たしていたため幕府も流通を黙認し、また諸国大名が、参勤交代のとき中央貨幣である慶長金銀と交換するための手段としても用いられた。17世紀末の品位を低下させた元禄金を発行するに至り、ようやく金座および銀座による領国貨幣の回収が進行し通貨統一が達成された。一方、天領であった甲斐国では甲州金座の松木家に甲州金の発行が引き続き認められ、これは元文年間ごろまで続いた。

近藤守重の ⇒『金銀図録』および草間直方の『三貨図彙』には戦国時代から江戸時代に掛けての多くの金貨および銀貨が収録されているが、その中でも領国貨幣には後世の創作によると思われるものまで含まれ、またそれが後世に図録を元に作成され、今日、玩賞品(がんしょうひん)として扱われているものも少なくないが、確固たる記録に欠けるものが多く、本来の通貨であるか玩賞品であるか判明していないものも存在する[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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