頌栄女子学院中学校・高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度37分55.8秒 東経139度43分46.5秒 / 北緯35.632167度 東経139.729583度 / 35.632167; 139.729583座標: 北緯35度37分55.8秒 東経139度43分46.5秒 / 北緯35.632167度 東経139.729583度 / 35.632167; 139.729583
過去の名称頌栄女学校、頌栄高等女学校
国公私立の別私立学校
設置者学校法人頌栄女子学院
設立年月日1884年
共学・別学女子校
中高一貫教育完全一貫制
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学期2学期制
学校コードC113310300035 (中学校)
D113310300051 (高等学校)
高校コード13527F
所在地〒108-0071
東京都港区白金台2-26-5
外部リンク公式サイト
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ウィキプロジェクト 学校
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頌栄女子学院中学校・高等学校(しょうえいじょしがくいんちゅうがっこう・こうとうがっこう、英: Shoei Girls' Junior and Senior High School)は、東京都港区白金台二丁目にあるキリスト教系の私立の女子中学校・高等学校(中高一貫制)。 岡見清致(1855年生)は九州中津藩士・岡見清通の子で、一家は明治維新後は東京大崎に住み、品川、芝方面に広く土地をもつ地主として貸地貸家業を営んだ[3][4]。清致は江戸・築地で生まれ、家業を継いだ[5][3]。叔父に福澤諭吉を引き立てた岡見清熙(彦三)がおり、清致は福澤の影響で英学を学ぶとともに、幕末の儒学者林梁にも師事した[5]。一族の岡見辰五郎が青物横町の自宅内にキリスト教の説教所を設け、品川教会を設立したことから[6]、清致も米国長老教会派遣宣教師オリバー・マクリーン・グリーンより受洗[5]。1878年に家塾「品台学舎」の設立を出願し、1884年に頌栄小学校として開校した[7]。 実弟に岡見京の夫である岡見千吉郎がいる。清致の妻に、田中不二麿子爵の妹の静子(1865年生)、奥平昌邁伯爵の娘の春(1878年生)らがいる[3]。岡見家は裕福な一族であり、清致の弟の千吉郎、義治とともに、千吉郎の妻京、清致の子の敬一(1879年生)、慎二(1883年生)も米国に私費留学した[8][9]。長男敬一は頌栄学園の校主・理事長となり、陸軍中将の坪井航三男爵の娘と結婚、二男の慎二は同校第四代校長を務め、台北高等商業学校校長武田英一の娘と結婚、三男・弟三は堤正義の娘と結婚、長女みゑは小室信夫の二男小室三吉に、二女きよは秤座守随商店の守随啓四郎に嫁いだ[3][10][11]。理事長、校長を務めた岡見如雪(1916-2011、立教大卒、元三井物産ほか)は敬一の長男、同岡見清明(1943年生、慶應大卒、元電通)は如雪の長男[12]。清致の姉すみ(寿海)の入婿に岡見正(頌栄小学校校長)、その娘育の夫に田口卯吉の長男田口文太、正の甥に米国で写真家となった松浦栄がいる。千吉郎の弟岡見彦蔵(1860年生)も頌栄女学校の教壇に立ち、1903年から1905年に校長を務めている[13]。
沿革
1884年 - 頌栄学校が岡見清致(おかみ きよむね/岡見清熙の甥)により開校[1][2]
1885年
2月 - 岡見が頌栄瑛学校開校[1]
9月 - 岡見が頌栄女学校を開校し女子普通教育に一本化[1]
1888年 - 木村熊二を校長に迎える[1]
1920年 - 高等女学校に昇格[2]
1964年 - 「頌栄女子学院中学校・高等学校」に改称[2]
1982年 - 英国に、英国学校法人Winchester Shoei Collegeが開学[2]
1994年 - 高等学校の生徒募集を中止[2]
創立者
教育方針
高雅な品性や豊かな国際感覚の涵養、社会のために貢献奉仕できる人格を形成し、将来その人格が社会に出て活かされることを目標にしている[14]。