須賀 彦次郎(すが ひこじろう、1889年(明治22年)3月4日 - 1941年(昭和16年)2月5日)は、日本の海軍軍人。海軍の中国専門家。最終階級は海軍中将。位階勲等は従四位勲二等。三重県飯南郡松阪町(現・松阪市)出身。 旧制三重県立松阪中学校を経て海軍兵学校第38期入校。入校時成績順位は150名中4番、卒業時成績順位は149名中54番。津田静枝、佐藤脩に続き、日本海軍が養成した中国関係の専門家である。尉官時代は水雷屋で「葦」駆逐艦長在職中は美保関事件に遭遇。部下28名が殉職した。 河川砲艦「堅田」艦長着任後は殆ど中国関係の勤務に限定された。情報活動に携わったが、中国人協力者の信頼が厚く、国民党政権が重慶に移ってからも、須賀のもとには重慶からの情報が絶えずもたらされていた[1]。須賀は情報活動のため私財を提供していたが、協力者の一族の世話までしていたため、その額は莫大であったという[2]。汪兆銘政権樹立工作を担った梅機関
略歴
大角岑生海軍大将に随行して広東方面に出張中、搭乗機が墜落炎上して死亡する。公務殉職と認定され海軍中将に特別昇進した。 須賀の実家は老舗問屋で、中国人との交際費では困らなかった。また、飲酒の席での奇行は有名で、本来であれば進退問題になりかねない程のものであったが、須賀の、中国に関する知識・見識・人脈は他の者に替えることが難しく、要路の者に限らず、その人品を慕う中国人は多く、その死後、中国人有志により南京に須賀の碑が建立された程であった[2]。
人物像
年譜
1889年(明治22年)3月4日- 三重県飯高郡松阪町(現在の松阪市)魚町52番地にて生まれる。
1907年(明治40年)9月21日- 海軍兵学校入校
1910年(明治43年)7月18日- 海軍兵学校卒業 海軍少尉候補生・装甲巡洋艦「浅間」乗組
10月16日- 練習艦隊遠洋航海出発 ホノルル~サンフランシスコ~サンピドロ~マンサニーリョ
1911年(明治44年)3月6日- 帰着
3月23日- 戦艦「安芸」乗組
12月1日- 任 海軍少尉・戦艦「敷島」乗組
1912年(大正元年)8月9日- 海軍砲術学校普通科学生
12月20日- 海軍水雷学校普通科学生
1913年(大正2年)5月24日- 戦艦「朝日」乗組
12月1日- 任 海軍中尉
1913年(大正3年)3月23日- 2等海防艦「松江」乗組
1915年(大正4年)3月1日- 第1駆逐艇隊附
1916年(大正5年)4月11日- 戦艦「摂津」乗組
1917年(大正6年)10月10日- 戦艦「摂津」分隊長心得
12月1日- 任 海軍大尉・海軍大学校乙種学生