須貝四郎
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須貝四郎
基本情報
国籍
日本
出身地兵庫県
生年月日1949年5月26日
死没 (1994-07-08) 1994年7月8日(45歳没)
騎手情報
所属団体日本中央競馬会
所属厩舎阪神栗東橋田俊三(1969 - 1979)
初免許年1969年3月1日
免許区分平地(初期には障害免許も保持)
騎手引退日1979年
重賞勝利8勝
G1級勝利1勝
通算勝利907戦132勝
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須貝 四郎(すがい しろう、1949年5月26日 - 1994年7月8日)は、兵庫県出身の元騎手・元競馬評論家

兄は元騎手・元調教師須貝彦三、甥は現調教師の須貝尚介である。ニックネームは「四郎ちゃん」[1]
来歴

1969年3月に騎手免許を取得し、同期の楠孝志と共に阪神橋田俊三厩舎からデビュー。楠以外の同期には内田国夫上野(伊藤)清章中島敏文西浦勝一がいる。初騎乗は同1日京都第6競走5歳以上100万下・シルバァバンブー(10頭中9着)、初勝利は同8日の京都第10競走5歳以上400万下・サチイズミであった。1年目から11勝をマークし、1976年まで8年連続2桁勝利を記録。3年目の1971年阪神障害ステークス(秋)・インターヒカリで重賞初勝利を挙げると、同馬とのコンビで京都大障害(秋)も制し、同年の啓衆社賞最優秀障害馬を受賞。この年は平地・障害両方で14勝を挙げ、自己最多の28勝をマーク。1972年からはタイテエム主戦騎手となり、スプリングステークスヒデハヤテを破って平地重賞初制覇。ランドプリンスロングエースと「関西三強」を形成し、東京優駿ではこの三強が上位を独占。タイテエムはロングエース、ランドプリンスと頭差の3着であった。秋は神戸新聞杯京都新聞杯を連勝し、菊花賞では1番人気に支持されたが、関東馬のイシノヒカルの2着とクラシック制覇はならなかった。1973年には落馬して負傷したため、タイテエムの主戦騎手が兄の彦三に交代され、天皇賞(春)を制している。1974年阪神3歳ステークス・ライジンでエリモジョージロングホークウラカワチェリーを抑えて自身唯一のGI級レース制覇を決め、同年の優駿賞最優秀3歳牡馬を受賞。1975年2月16日中京第9競走渥美特別・グッドフォーチュンで通算100勝を達成し、1978年8月20日小倉第7競走4歳以上300万下・フレートステートが最後の勝利、第10競走4歳以上300万下・ケイシュウプライド(6頭中3着)が最後の騎乗となった。1979年引退。

引退後は評論家として関西テレビ競馬中継エキサイティング競馬ドリーム競馬』などに出演。デビュー当時の『週刊競馬ブック』の新人騎手へのインタビュー記事[要ページ番号]によると、四郎は新人騎手のころから喋りも達者であり、それが後年のテレビ出演に役立ったとされている。その一方、無口で寡黙であったのが同期の西浦で、好対照であったという。

1994年7月8日、食道動脈瘤破裂のため、京都市東山区の京都専売病院で死去。45歳没。
騎手通算成績

通算成績1着2着3着4着以下騎乗回数勝率連対率
平地1119191514807.138.250
障害21171448100.158.316
計132108105562907.146.265

おもな騎乗馬

※太字はGI級レース。

インターヒカリ(1971年阪神障害ステークス(秋)京都大障害 (秋)1972年京都大障害 (春)

タイテエム(1972年スプリングステークス神戸新聞杯京都新聞杯

マツカオリ(1973年小倉記念

ライジン(1974年阪神3歳ステークス

脚注[脚注の使い方]^ 関西テレビアナウンサー松本暢章が命名。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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