須藤聡明
[Wikipedia|▼Menu]

 須藤 聡明 Toshiaki SUDO
基本情報
名前須藤 聡明
生年月日 (1955-09-06)
1955年9月6日(68歳)
身長168 cm (5 ft 6 in)
体重76 kg (168 lb)
国籍 日本
出身地茨城県
経歴
テンプレートを表示

須藤 聡明(すどう としあき、1955年9月6日 - )は茨城県出身のプロゴルファー
来歴

取手一高時代は野球部に在籍し、後に共にプロゴルファーになっている同年の青柳公也がチームメイトで[1]、2年次の1972年と3年次の1973年には甲子園に出場している[2]

高校卒業と同時にプロゴルファーを目指して神奈川県の鎌倉CCに入り、2年後には千葉県の銚子CCに移って6年間修業を積む[3]

1981年には6度目の挑戦でプロテストに合格し[1]1982年の美津濃プロ新人でデビュー[3]

1988年のCITICORP OPENでは最終日に68をマークし、泉川ピート安田春雄高見和宏植田浩史町野治と並んでの9位タイ[4]に終わった。

プロ9年目の[5]1989年にはラークカップで優勝したブライアン・ジョーンズオーストラリア)にしぶとく食い下がり2位となって賞金ランク26位で初シードを手にする[2]

続くアコムダブルスでは、同じ高校出身の青柳に自ら「一緒に出よう」と声をかけて異色ペアを組み、最終日には大会新の通算33アンダー255で前日8位から首位に立つ[6]。ロジャー・マッカイ&ウェイン・スミスの豪州ペア[2]とのプレーオフでは須藤組が2ホール目でパーをセーブしたのに対し、マッカイ組がパーパットを外して決着がつく[6]。プロ初優勝[2] [7]で賞金1100万円を獲得し、試合後には二人で「最高です」を連発した[6]

1990年日本プロマッチプレーに初出場し、1回戦で中村通を破るなど波乱を演出すると、尾崎健夫との2回戦でも大物食いぶりを見せる[8]。須藤1アップで迎えた最終18番で尾崎健がバーディーを奪ってイーブンとなり、エキストラにもつれこんだが、2ホール目(通算20ホール目)でグリーン手前バンカーに落としてボギーとした尾崎健に対して、須藤はパーをセーブして振り切り、準々決勝に進んだ[8]。準々決勝は倉本昌弘と対戦し、アウトを取ったり取られたりでイーブンで折り返した10番、倉本は右のバンカーに入れたの対して須藤は4mに乗せた[8]。ピンまで10mはあるバンカーショットを倉本が直接放り込むと、須藤はバーディーパットを外し敗退[8]

同年はインペリアルトーナメントで中村・重信秀人尾崎直道飯合肇に次ぐ5位[9]、日本プロでは金子柱憲牧野裕デビッド・イシイアメリカ)と並んでの6位タイ[10]に入った。

1992年ペプシ宇部興産大町昭義上野忠美奥田靖己佐々木久行横山明仁と並んでの9位タイ[11]に入り、同年に裏シードを獲得した以後は、QTからツアー出場を目指していたもののファイナルへ駒を進められなかったり、最後まで行っても上位に入れずチャレンジツアー出場がやっとという年も多かった[1]

1993年ブリヂストン阿蘇オープン6位タイ[12]茨城オープンでは比嘉勉白浜育男若木進一新関善美と並んでの5位タイ[13]に入る。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef