須藤 聡明 Toshiaki SUDO
基本情報
名前須藤 聡明
生年月日 (1955-09-06) 1955年9月6日(68歳)
身長168 cm (5 ft 6 in)
体重76 kg (168 lb)
国籍 日本
出身地茨城県
経歴
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須藤 聡明(すどう としあき、1955年9月6日 - )は茨城県出身のプロゴルファー。 取手一高時代は野球部に在籍し、後に共にプロゴルファーになっている同年の青柳公也がチームメイトで[1]、2年次の1972年春と3年次の1973年夏には甲子園に出場している[2]。 高校卒業と同時にプロゴルファーを目指して神奈川県の鎌倉CCに入り、2年後には千葉県の銚子CCに移って6年間修業を積む[3]。 1981年には6度目の挑戦でプロテストに合格し[1]、1982年の美津濃プロ新人でデビュー[3]。 1988年のCITICORP OPENでは最終日に68をマークし、泉川ピート・安田春雄・高見和宏・植田浩史・町野治と並んでの9位タイ[4]に終わった。 プロ9年目の[5]1989年にはラークカップで優勝したブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)にしぶとく食い下がり2位となって賞金ランク26位で初シードを手にする[2]。 続くアコムダブルスでは、同じ高校出身の青柳に自ら「一緒に出よう」と声をかけて異色ペアを組み、最終日には大会新の通算33アンダー255で前日8位から首位に立つ[6]。ロジャー・マッカイ
来歴
1990年の日本プロマッチプレーに初出場し、1回戦で中村通を破るなど波乱を演出すると、尾崎健夫との2回戦でも大物食いぶりを見せる[8]。須藤1アップで迎えた最終18番で尾崎健がバーディーを奪ってイーブンとなり、エキストラにもつれこんだが、2ホール目(通算20ホール目)でグリーン手前バンカーに落としてボギーとした尾崎健に対して、須藤はパーをセーブして振り切り、準々決勝に進んだ[8]。準々決勝は倉本昌弘と対戦し、アウトを取ったり取られたりでイーブンで折り返した10番、倉本は右のバンカーに入れたの対して須藤は4mに乗せた[8]。ピンまで10mはあるバンカーショットを倉本が直接放り込むと、須藤はバーディーパットを外し敗退[8]。
同年はインペリアルトーナメントで中村・重信秀人・尾崎直道・飯合肇に次ぐ5位[9]、日本プロでは金子柱憲・牧野裕、デビッド・イシイ(アメリカ)と並んでの6位タイ[10]に入った。
1992年はペプシ宇部興産で大町昭義・上野忠美・奥田靖己・佐々木久行・横山明仁と並んでの9位タイ[11]に入り、同年に裏シードを獲得した以後は、QTからツアー出場を目指していたもののファイナルへ駒を進められなかったり、最後まで行っても上位に入れずチャレンジツアー出場がやっとという年も多かった[1]。
1993年はブリヂストン阿蘇オープン6位タイ[12]、茨城オープンでは比嘉勉・白浜育男・若木進一・新関善美と並んでの5位タイ[13]に入る。