須藤 南翠(すどう なんすい、安政4年11月3日(1857年12月18日) - 大正9年(1920年)2月4日)は、伊予国宇和島出身の小説家・新聞記者。本名は須藤 光暉(すどう みつてる)。妻は矢野龍渓の姪である小林シズ。息子は建築家の眞金、孫に詩人の須藤伸一
がいる。宇和島藩御目付役御軍使須藤但馬の次男として生まれる。幼名孟(たけし)。但馬はしばしば江戸御留守詰を勤め、孟も多く江戸麻布の藩邸に置かれた。明治になって宇和島に帰り、藩校明倫館に学ぶが、時勢に応じて教科が漢書から皇典、翻訳書、英書、国史と変転するのに、松山師範学校に転じる。八幡浜小学校に勤めるが、ほどなく土屋郁之助の偽名で東京に奔出[1]。放浪生活を経て、1877年に弾直樹と新平民学校設立を企画するが失敗する。
翌1878年に『有喜世新聞』(後の開花新聞、改進新聞)が発刊されると探訪社員として入社、やがて編輯となり、つづきもの(新聞小説)を執筆。当時の高橋お伝事件を当て込んだ、仮名垣魯文風の「夜嵐お絹」「新藁おみな」「茨木お滝」などの毒婦伝が人気を得て、読売新聞上の饗庭篁村や、岡本起泉
とともに若手記者の三才子と言われた。1883年に『有喜世新聞』が廃刊になって、『開花新聞』に『千代田刃傷』『黄金花籠』を連載して人気となり、中島座で片岡我当、中村時蔵らによって演じられたのも評判となった。続いて『春色日本魂』、立憲改進党の立場による矢野龍渓風の政治小説『緑簑談』『痴人の夢』『新粧之佳人』が大いに人気となった[2]。1889年、饗庭篁村らとともに文芸雑誌『新小説』を創刊し、これに毎号執筆、またこの年に南翠小説集である『こぼれ松葉』を月2冊ずつ刊行するようになる。
1892年、大阪朝日新聞に招かれて大阪に移った。山師めいた広告は載せない、読み物も講談物は載せず小説も社外からは買わないなど、硬派の編集方針で、新聞の品格は大阪毎日に比べ大いに上がったが、堅苦しい紙面で販売店から苦情が出るに至った[3]。また、懇意の役者を贔屓する劇評が横行していたため、役者からの接待等を一切禁じ、記事も無署名にするなどした[4]。大阪ではあまり人気は出なかったが、『英一蝶』を中村鴈治郎が演じて当りを取った。執筆は徐々に減り、1902年に脳溢血で倒れて酒と煙草をやめて仕事もさらに減らす。1903年に大阪朝日新聞をやめて東京に戻り、『東京朝日新聞』他の新聞につづきものを掲載、また金尾文淵堂の企画「高僧伝叢書」に力を入れた。1914年(大正3年)には「家光の初恋」が澤村宗十郎によって帝劇で演じられた。
1917年頃から糖尿病、動脈硬化症にかかる。『土居通夫伝』執筆を土居剛吉郎に依頼されて、たびたび大阪に通い、1919年に土居邸で倒れて、翌春に同地にて没した。
1888年に発表した『殺人犯』は、黒岩涙香の創作探偵小説『無惨』(1889年)よりも1年早く書かれており、日本の探偵小説の嚆矢とされる。
作品
『千代田刃傷』1883年(『開花新聞』掲載)
『新説黄金廼花籠』1885年
『結城合戦花鍬形』1885年 改新新聞
『春色日本魂』1885年
『雨窓漫筆 緑簑談』1886年
『痴人の夢』1887年
『春暁撹眠痴人之夢』1887年
『新粧之佳人』1887年 正文堂
『雛黄?』1888年 正文堂
『うつし絵』1888年 正文堂
『處世冩眞 緑箕談』1888年 正文堂
『殺人犯』1888年 正文堂
『慨世悲歌 照日葵』1888年 春陽堂 ; 南翠の歴史小説の集大成。矢野龍渓『経国美談』の影響が見られる[5]。
『朧月夜』1889年 同好会(『新小説』掲載)
『心中』1889年(『華錦』掲載)
『唐松操』1889年 文昌堂
『隠君子』1889年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)
『みなし児』1889年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)
『金香露』1889年(『小説萃錦』掲載)
『旭章旗』1889年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)
『冬木立』1889年 同好会(『新小説』掲載)
『隠君子』1889年
『異裡子日衣』1890年 同好会(『新小説』掲載)
『新編破魔弓』1890年 (『国民之友』掲載)
『満春露』1890年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)
『行路難』1890年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)
『雛遊び』1890年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)
『万春楽』1890年 春陽堂(『こぼれ松葉』掲載)
『女塚』1890年(『都の花』掲載)