須磨弥吉郎
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須磨弥吉郎1938年2月、ワシントンD.C.米州機構本部で行われたデビスカップの抽選会にて、コーデル・ハルから紙片を受け取る須磨(左端)

須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年明治25年〉9月9日 - 1970年昭和45年〉4月30日)は、日本外交官政治家スペイン特命全権公使衆議院議員
諜報戦のパイオニア

秋田県南秋田郡土崎新城町(現秋田市)生まれ[1]。旧制秋田中学校卒業後広島師範学校に進学するも、一転して法律家を志し中央大学法学部に転学。卒業後、1919年に外務省入省。

外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対?介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。

この中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にした内閣情報部を設立する[2]。その後、1939年、満州国在勤となり満州国外務局情報部長を務める。
東機関

日米交渉の行き詰まりにより、開戦は必至の情勢となる中、須磨は、親枢軸的なスペインを拠点にアメリカの情報を収集することを構想し、1940年12月、「東機関」を開設、その指揮のため自ら駐スペイン特命全権公使として赴任した。1941年12月8日の真珠湾攻撃から始まる対米開戦後、日本は、アメリカ大陸の在外公館を次々と閉鎖させられたことにより情報収集に著しい支障をきたした。しかし、「東機関」は、欧米の主要拠点にアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコをはじめとする情報部員を送り込み、諜報戦で多くの成果を挙げた。1943年時点で、アメリカの原爆開発まで押さえており、また太平洋戦争で激戦となったガダルカナル戦の最中、サンディエゴから現地に向かう船の数まで把握した。しかし、こうした情報は、日本政府・軍部に活用されることなく、またアメリカは暗号解読によってマドリッドからの「東機関」による情報を全て把握していたため、1944年半ば、アメリカによって「東機関」は壊滅に追い込まれた。
A級戦犯容疑者から代議士へ

戦後は、こうした諜報活動の成果が米国に警戒されたためか1945年12月6日GHQが発出した逮捕命令者リスト(第四次逮捕者9名中の1人)に名を連ねるが、逮捕命令が出た時点では日本に帰国できず、マドリードに抑留された状態であった[3]。帰国後、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所勾留されるが、1948年に不起訴処分で釈放。公職追放解除後、1953年、第26回衆議院議員総選挙秋田1区から改進党公認で立候補し当選[4]。1955年の第27回衆議院議員総選挙日本民主党から再選。自由民主党に合流し、1958年まで2期務めた[4]。1965年、「勲二等旭日重光章」受章。
須磨コレクション

須磨はスペイン公使業務の一方で、1940年から51年のまでの6年間にスペインを中心とする西洋美術コレクションを形成した(若干中国や日本関係のものも含む)。そのコレクションカタログによると、1760点(一括記載もあるので実際は1780点余)あったことが解る。更にスペイン以前の勤務地で収集品も加わるため、総数は2000点近くに上ると考えられる[5]


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