須恵器
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出典検索?: "須恵器" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年1月)
日下部遺跡(兵庫県神戸市)から出土した飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館蔵)

須恵器(すえき)は、古墳時代から平安時代にかけての日本で生産された陶質土器b器)。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。
名称

平安時代には「陶器」と書いて「すえもの」「すえうつわもの」と読まれていた(ただし古墳時代よりそう読まれていたかどうかは不詳)が、いわゆる陶器(とうき)との混乱を避けるべく、考古学用語として須恵器という当て字が考案され一般化したものである。20世紀前半までは祝部土器(いわいべどき)と呼ばれることがあった。また、奈良時代の僧である行基が諸国を行脚して民衆に作陶技術を教授したとする伝承から「行基焼」(ぎょうきやき)との別名もある[1][注釈 1]

なお福岡県糟屋郡には、須恵町という須恵器を連想させる地名があり、実際に「須恵焼」という焼物を産出してもいるが、これは江戸時代福岡藩磁器御用窯が在った現在の同町で焼かれ、その後博多人形師宗家の中ノ子家が継承した、無双金錆焼に代表される焼物の名称であり、須恵という地名および須恵焼と当項「須恵器」とは、直接的には無関係である。
特徴

須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別が付きにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん)焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。

縄文土器から土師器までの土器は、日本列島古来の技法である「輪積み(紐状の粘土を積み上げる)」により成形され、野焼きで作られていた。このため焼成温度が800?900度と低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。

それに対し、須恵器は全く異なる技術(轆轤技術)を用いて成形し、窖窯(あながま)と呼ばれる地下式・半地下式の登り窯を用いて1100度以上の高温で還元焔焼成されることで強く焼締まり、従来の土器以上の硬度を得た。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素になるところ、一酸化炭素水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまり還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な青灰色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる[2]

基本的には釉薬をかけない。釉のかかったものも見られるが、これらの多くは窯の燃焼中、燃料()の灰が製品に付着し、高熱で融解して偶然生じた「自然釉」である。

窖窯
大阪府陶邑窯跡群TG61(移築復元)。

甕のタタキ板
日置荘遺跡出土。大阪府立近つ飛鳥博物館展示。

甕の当て具
日置荘遺跡出土。大阪府立近つ飛鳥博物館展示。

歴史
古墳時代.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}坏の変遷和泉市いずみの国歴史館展示。大庭寺遺跡(堺市)出土 初期須恵器国立歴史民俗博物館展示。

高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したとの記述がある一方、垂仁天皇垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない[3]。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。

考古学的には、大阪府堺市和泉市大阪狭山市岸和田市にまたがる泉北丘陵に分布する陶邑窯跡群発掘調査と、森浩一田辺昭三中村浩らの一連の編年的研究[4][5][6]により、須恵器の出現は古墳時代中期の5世紀中頃とされていたが[7]、近年では、陶邑窯跡群内に含まれる堺市大庭寺遺跡の「TG232号窯」・「TG231号窯」や、野々井西遺跡の「ON231号窯」において、より古い段階に位置づけられる須恵器が発見され、少なくとも5世紀前半段階には、朝鮮半島から陶質土器が持ち込まれるのとほぼ同時に生産技術が招来され、陶邑地域で須恵器生産が開始されたことが明らかとなっている[8]

この須恵器の生産が始まったころに作られたものを特に「初期須恵器」といい、朝鮮半島の「陶質土器」によく似た形をしている[9]

このほか日本最古の須恵器生産が始まった場所(窯跡)として福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群等が集中して存在しており、あわせて朝倉窯跡群と総称されている。[10]

また、吹田市吹田32号窯、岡山県奥ヶ谷窯跡、香川県宮山1号窯・三谷三郎池西岸窯跡、福岡県夜須町山隈窯跡などの初現期の窯跡も日本各地に造られる。


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