順治帝
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順治帝 フリン(福臨)

第3代皇帝
清世祖順治皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵)
王朝清
在位期間崇徳8年8月26日 - 順治18年1月7日
1643年10月8日 - 1661年2月5日
都城盛京(mukden)→順天府
満洲語.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}????? ?????
?????(aisin gioro fulin)
諡号章皇帝(eldembuhe h?wangdi)
体天隆運定統建極英睿欽文顕武大徳弘功至仁純孝章皇帝 (abka be dursulehe, forgon be wesihun obuha, uherileme toktobuha, doro be ilibuha, sure genggiyen, ginggun ?u, iletu horonggo, erdemu be amban obuha, gung be badarambuha, ten i gosingga, umesi hiyoo?ungga, eldembuhe h?wangdi)[1]
廟号世祖
生年崇徳3年1月30日
1638年3月15日
没年順治18年1月7日[2]
1661年2月5日
ホンタイジ
母荘妃(孝荘文皇后
后妃廃皇后博爾済吉特氏
孝恵章皇后
孝献皇后
陵墓孝陵(hiyoo?ungga munggan)
年号順治 (ijish?n dasan): 1644年 - 1661年
玄Y(康熙帝)

順治帝(じゅんちてい)は、の第3代皇帝はフリン(満洲語: ?????[3] 福臨 日本語読み:ふくりん[4])、廟号は世祖。在世時の元号順治を取って順治帝と呼ばれる。

入関後(中国支配の開始後)の清の土台を確固たるものとし、次代の康熙帝雍正帝乾隆帝の三世の春、いわゆる康雍乾盛世の黄金時代を導く役割をした。

中国共産党では初代ヌルハチと第2代ホンタイジを清の前身である後金の皇帝とし、順治帝を清の初代皇帝と位置付けている。
生涯
即位まで

ホンタイジの第9子として生まれる。母は永福宮荘妃(ボルジギト氏)。崇徳8年(1643年)、ホンタイジが急病で遺言を残さずに崩御した。後継として、最初はホンタイジの兄ダイシャンが候補に挙がったが人望がなく、自ら辞退した。ホンタイジの長子の粛親王ホーゲは有力な候補であったが、ホンタイジの弟でホーゲより年少の睿親王ドルゴンを推す一派がより優勢であった。ドルゴンはホーゲ一派との全面衝突を避け、ホーゲの異母弟である6歳のフリンを皇帝に推した。

フリンを皇帝にすれば、ホーゲの帝位継承の目は完全に潰れる。

ホンタイジの実子に帝位を継がせることには変わりないので、多くの貴族が納得する。

6歳のフリンなら自分が制御できる。

という計算だった[5]。結果、フリンが皇帝に推戴され、ドルゴンと、ヌルハチの弟の息子ジルガラン摂政となった。生母の荘妃は皇太后とされた。のちに、荘妃とドルゴンは再婚した。荘妃は自分の子供を皇帝にするためにドルゴンと手を結んだと言われている[6]。ただし、皇太后とドルゴンの再婚に関しては、これを否定する説も唱えられている。
明の滅亡と清の入関

翌1644年(順治元年、崇禎17年)3月19日李自成率いる軍が北京を陥落させ、を滅ぼした。清軍はドルゴンの主導の下、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に、北京へ向かった。北京の順軍は明を滅ぼした後、おのおの官職を決めたり明の高級官僚を処罰したりと忙しかったが、山海関の中に入った清軍を4月23日に迎え討った。清軍は大勝し、さらに敗走する李自成を追って通城(現在の湖北省)まで南下し、順を滅ぼした。10月19日、順治帝はドルゴンに迎えられて北京に入城した。
ドルゴン摂政時代

ドルゴンとホーゲの対立は日に日に悪化した。順治元年(1644年)4月1日には、ホーゲが自分を誹謗しているのを耳にしたドルゴンが、「ホーゲが謀反を企んでいる」と上奏した。幼い順治帝は兄を助けようと泣いて命乞いし、罰金刑だけですんだ[7]。その後、権力を増したドルゴンは順治4年(1647年)目障りになったジルガランから摂政王の位を剥奪し、代わりに自分の弟ドドを摂政とした。翌順治5年(1648年)にはさらに、ジルガランを郡王に格下げした上で罰金刑に処した。

ホーゲはドルゴンから冷遇されるも、戦場で功績を重ね、張献忠を倒すなど抜群の戦績を挙げた。これを不愉快に思ったドルゴンは、また謀反の罪で殺そうとするが、順治帝は一歩も譲らず「処刑は認めない」と毅然たる態度を示した。それでもホーゲは冤罪で捕えられ、順治5年(1648年)に獄死した[8]

ホーゲとジルガランを排したドルゴンは権力をさらに増し、横暴が目立つようになった。自身の称号は「摂政王」から「叔父摂政王」順治2年(1645年)に「皇叔父摂政王」順治5年(1648年)からは「皇父摂政王」を称している。また、ホーゲ死後にその側室を自分の側妃とした。

しかし順治7年(1650年)、ドルゴンは狩りの途中で突然死去した。
ドルゴンへの復讐


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