順徳上皇
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順徳天皇
順徳天皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』より)
第84代天皇
在位期間
1210年12月12日 - 1221年5月13日
承元4年11月25日 - 承久3年4月20日
即位礼1211年1月14日(承元4年12月28日
大嘗祭1212年12月7日建暦2年11月13日
元号承元
建暦
建保
承久
関白近衛家実
先代土御門天皇
次代仲恭天皇

誕生1197年10月22日建久8年9月10日
卿二位邸か
崩御1242年10月7日仁治3年9月12日
佐渡
大喪儀1243年6月1日寛元元年5月13日
陵所大原陵
真野御陵(火葬塚)
漢風諡号順徳院
(順徳天皇)
1249年8月29日建長元年7月20日)諡号勅定
諱守成
1200年1月4日正治元年12月16日)命名
別称佐渡院
元服1209年2月1日承元2年12月25日
父親後鳥羽天皇
母親藤原重子(修明門院)
中宮九条立子(東一条院)
子女仲恭天皇ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居平安宮
三条坊門殿
大炊御門殿
三条烏丸殿
閑院
高陽院
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順徳天皇(じゅんとくてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:順コ天皇、1197年10月22日建久8年9月10日〉- 1242年10月7日仁治3年9月12日〉は、日本の第84代天皇(在位:1210年12月12日承元4年11月25日〉- 1221年5月13日承久3年4月20日〉)[1][2][3]は守成(もりなり)[1][2][3]

後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。承久の乱によって佐渡へ配流された。
生涯

後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれる[1][2][3]正治元年(1199年)1月に親王宣下[2]

正治2年(1200年)4月に土御門天皇の皇太弟となる[2]摂政である九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳天皇)の妃にするように命じ(『愚管抄』巻6)、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として(『猪隈関白記』建仁元年12月18日条)、上皇の後継者としての地位強化が図られている[4]

承元2年(1208年)8月、莫大な八条院領の相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、建暦元年(1211年)11月の昇子内親王の死後には八条院領を相続した。

承元4年(1210年)11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する[1][2]。譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続される。そのため、即位後の内裏は閑院であった[2]。天皇の治世に関して、『増鏡』は「この御世には、いと掲焉なる事おほく、所々の行幸しげく、好ましきさまなり」と評しているが、このように世人の注目を引く華々しい行動が多かったのは、鎌倉幕府に対する皇権の示威行為の一端と考えられ、おそらく父上皇の意図によるところが大きい。

直接政務に与らない天皇は、王朝時代の有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』を著した[2][3]。これは天皇自身に関わる有職作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で和歌にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を磨き、藤原俊成女藤原為家とも親交があった。家集としては『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した『八雲御抄』が知られる[2][3]。『続後撰集』以下の勅撰集には159首が入る。

父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた[2]。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった[3]。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡配流となった[2][3]

在島21年の後、仁治3年(1242年9月12日に佐渡で崩御した[2]。上皇と近かった平経高の『平戸記』の仁治3年10月10日条に「御帰京事思食絶之故云々」とあることから、同年初めの四条天皇の崩御後に鎌倉幕府が自分の皇子である忠成王を排除して土御門上皇の皇子である邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させた(仁治三年の政変)ことで、自らの帰京と子孫への皇位継承に対する幕府の強い拒絶の意思を知った上皇が絶食による事実上の自殺を図った可能性も指摘されている[5]。配流後は佐渡院と称されていたが、建長元年(1249年)7月20日順徳院とされた[2]


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