項羽と劉邦_(小説)
[Wikipedia|▼Menu]

ポータル 文学

『項羽と劉邦』(こううとりゅうほう)は、司馬遼太郎歴史小説楚漢戦争期を舞台に、鬼神のごとき武勇でを滅ぼした項羽と、余人にない人柄で人々に推戴され漢帝国を興した劉邦を描く。

小説新潮』誌上で1977年1月号から1979年5月号まで連載された。目次

1 概要

2 あらすじ

3 主な登場人物

3.1 楚

3.2 漢

3.3 秦

3.4 その他の人物


4 書誌情報

5 劇画ドラマ化

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


概要

1970年代半ばより数度訪中取材し執筆された。勇猛さでは不世出の武人といえる楚の項羽と、戦下手だがその人柄によって周囲を賢人に恵まれ最後には天下を手にした漢の劉邦。秦末の始皇帝の死から書き起こし、2人の英雄を軸として数多の群像の興亡を語り、項羽の死を最後に筆を置いている。

雑誌連載時の題名は『漢の風、楚の雨』(かんのかぜ そのあめ)で、単行本刊行に際して変更された。「漢の風」とは劉邦に『大風の歌』という詩があることともに漢が本拠とした中原の黄土地帯を吹き上げる乾いた風塵を連想して付けられ、「楚の雨」とは雨量が多く多湿な楚の風土を表したものである。司馬は、揚子江周辺で暮らしていた稲作集団である楚とは、黄河流域で形成された中国文明にとって最後の異質文化を持った異分子であり、この楚人達が項羽によって率いられて大陸を席巻したことにより楚人の稲作と湖沼の文化が投げ込まれ、このことが多民族多文化が混淆して成立した中国文明にとっての最後の総仕上げとなり、「汎中国的なものへの最初の出発点」となったと評している。

数百年に一度大規模な飢餓に襲われることが宿命であった中国の歴史においては英雄とは人々の食の保証ができる者であり、そうした力のある者が自然に王や皇帝に推戴されて王朝を開き、その能力を喪失すれば新たな王朝に倒されるのを常としてきた。司馬は、中国政治においては食を保証すること、少なくともそうした姿勢を取ることが第一義として置かれたため、そのような状況が中国史に「ありあまるほどの政治哲学と政策論を生産」させてきたと論じている。翻って日本では中国のように国中が食を求める飢民で渦を巻くなどといった状況はかつて起こったことがないために政治哲学・政策論の過剰な生産が起こらず、また英雄の概念も中国とは異なるため「中国皇帝のような強大な権力が成立したことがないということについても、この基盤の相違の中からなにごとかを窺うことができそうである」と評している[1]
あらすじ

史上初めて大陸を統一し、帝国という空前の巨大権力を地上に現出せしめた秦の始皇帝。しかしその絶対権力の苛烈なまでの行使は民を極限まで疲弊させ、国中に怨嗟の声が満ち満ちた。やがて始皇帝が没すると、陳勝・呉広の乱を皮切りとして圧政に耐えかねていた民衆の不満が爆発し、各地で無数の反乱が隆起することとなる。江南のの出身の項羽は、国を秦に滅ぼされて以来復仇の念を抱きながらも呉中で雌伏していたが、反乱隆起の報に接するや叔父の項梁に従い動乱の渦中に身を投じた。項梁はその知略で旧楚の王孫を擁して楚を再興するものの、ほどなく秦軍は巻き返しを図り章邯将軍を核として反乱の鎮圧に本格的に乗り出した。項梁は章邯の巧みな戦術に敗れて命を落とし、跡を継いで楚軍の頭目となった項羽は叔父の弔い合戦を秦軍に挑むべく軍を動かす。その軍勢の一隊には沛公・劉邦がいた。元は田舎町のごろつきで何の能もない無頼漢だったが、動乱の中での長として担がれた男である。

中原は沸騰し、楚と同様に戦国期の旧王国がかつての旧称を蘇えらせて割拠し始めていた。王国間は互いに同盟し秦打倒を叫んで連携を深めていたが、章邯率いる秦軍の巻き返しを目の当たりにしたことで大いに動揺した。その無類の軍略には何人も太刀打ちできないよう思われたが、しかし項羽は鬼神が気を吐くような勢いでこれを打ち破り、秦の主力軍に壊滅的な打撃を与えた。すでに虎の如き猛将として知られた項羽だったが、章邯をも下したことでその名は天下を圧するものとなる。全反乱軍の盟主の座に就いた項羽は、いよいよ関中に押し入り帝都・咸陽を攻めるべく西進を始める。関中は天嶮に囲まれた要害の地で攻略は難事であるように思われたが、しかし別働隊を率いて一足先に関中に進軍していた劉邦はこれを突破し、咸陽を制圧することに成功する。得意になった劉邦は、軽率にも関中王になろうとして関中への入り口である函谷関を塞ぎ、項羽の逆鱗に触れてしまう。項羽は憤激するものの、縮こまって一心に詫びを入れる劉邦の姿を見るや意気を削がれ、つい鷹揚に許した(鴻門の会)。沛のごろつき上がりの男など生かしておいた所で害はないと高をくくった結果であったが、しかし項羽は劉邦という存在を見誤っていた。なるほど、劉邦は政略の才も軍略の才も無きに等しい一介の無能人であったが、家臣の心を強烈に惹きつけて離さぬ余人にない人望があった。劉邦の軍勢とは、劉邦という一個の「虚」が頂上に寝転び、配下の将達がその「虚」を埋めようと懸命に知恵を絞るというところに不思議な強さがあった。劉邦を斬ると息巻く項羽の気力をも萎えさせるようなその特異な人格的魅力によって士卒を結束させながらも劉邦という存在はがらんどうの「虚」であり、逆説的ながらその「虚」の下でこそ将達はその能力を最大限に発揮する。賢者は知恵の限界が自身の限界となるものの、「虚」の存在は幾人もの賢者をその中に抱えて用いることができる。難攻不落の関中の攻略に成功したのも配下の進言によるものであり、例えるならば宰相の蕭何、軍師の張良などの稀代の能臣達が劉邦という巨大な杯を支えてその中になみなみと酒を注ぐというような、世にも奇怪な構造を備えていることを項羽は見ぬくことができなかった。

ついに秦は滅びた。天下は戦国期の封建制に戻り、滅秦の盟主である項羽によって各地は諸侯に分封された。項羽自身は「西楚覇王」と号し、楚北方の彭城に居を構えた。一方、劉邦は西南のの王に封じられるものの、漢は峻険な山々に隔絶させられた僻地であった。とはいえ高峻さえ乗り越えれば関中へ攻め込むことは容易であり、部下の進言を受け入れた劉邦は行動を起こし、関中を制圧して秦の累代の王都を手に入れる。項羽の行った論功行賞は甚だ不公平であり、天下の諸侯で満足している者はほとんどいなかった。やがてなども次々と反乱を起こして項羽は鎮圧に忙殺されることとなり、今こそ好機と見た劉邦は項羽の本拠地である彭城を目指して東進を始めた。反乱者が出た土地は女子供まで残らず虐殺するという項羽の行き過ぎた所業はそこここで反感を買っており、漢軍の到来を待ち望む声は多く劉邦はさほどの苦もなくその勢力を拡大していった。やがて洛陽に入城した劉邦が正式に項羽の討伐を宣言すると、天下の諸侯は群がるように参集し、反楚同盟軍は実に五十六万もの巨軍に膨れ上がった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef