音戸の瀬戸
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左が倉橋島で右が本州
下が音戸大橋で上が第二音戸大橋
2018年撮影、国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

映像外部リンク
第六管区海上保安本部
音戸の瀬戸ライブカメラ

音戸の瀬戸(おんどのせと)は、広島県呉市にある本州倉橋島の間に存在する海峡

この瀬戸とは、海峡を意味する[1]。ほぼ南北に伸びる海峡で南北方向約1,000メートル、幅は北口で約200メートル、南口の狭いところで約80メートル[2][3][4]

瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路であり、平清盛が開削したという伝説や風光明媚な観光地として知られている[5]
沿革
隠渡

音戸という地名の由来の一つに「隠渡」がある。これは、この海峡を干潮時に歩いて渡ることができたことから隠渡と呼ぶようになったという[5]

伝承によれば音戸には、奈良時代には人が住んでいたと伝えられている[6]。当時海岸はすべて砂浜で、警固屋と幅3尺(約0.9メートル)の砂州でつながっていた[6]。その付近の集落を“隠れて渡る”から隠渡あるいは隠戸と呼んだ[6]。そしてここを通行していた大阪商人が書きやすいようにと隠渡・隠戸から音戸を用いだしたのがこの名の始まりであるという[6]。その他にも、平家の落人が渡ったことから、あるいは海賊が渡ったことから呼ばれだしたという伝承もある[7]

瀬戸内海を横切る主要航路は、朝廷によって難波津から大宰府を繋ぐものとして整備された[8]。古来の倉橋島南側の倉橋町は「長門島」と呼ばれその主要航路で”潮待ちの港”が存在し、さらに遣唐使船がこの島で作られたと推察されているほど古来から造船の島であった[1][9]。音戸北側に渡子という地名があり、これは7世紀から9世紀に交通の要所の置かれた公設渡船の“渡し守“に由来することから、古来からこの海峡には渡船があったと推定されている[10][11]

つまり、遅くとも奈良時代には倉橋島の南を通るルート、そして北であるこの海峡を通るルートが成立していたと考えられている[1][12]
清盛伝説月岡芳年『芳年武者无類 平相国清盛』明治18年(1885年)。清盛の日招き伝説。戦前の県史跡「伝清盛塚」。伝承では1184年(元暦元年)建立されたと言われている[13]。中の宝篋印塔は高さ2.05メートルで室町時代の作なのは確定している[14]。塚内のクロマツは「音戸の清盛松」と呼ばれ、伝承では枯死したものを1719年(享保4年)植え替えたと言われている[15]二代目広重『諸国六十八景 安芸音戸』文久2年(1862年)。なおこの地は瀬戸内海式気候に属し雪が降ること自体が稀である。
伝承

この海峡で有名なのは、平清盛が開削し永万元年(1165年)旧暦7月10日完成した伝説である[15]。この海峡はつながっていて、開削するに至った理由は、厳島神社参詣航路の整備として、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われている[16]。この地に着いた時、短気な清盛は倉橋島を大回りするのをバカバカしく思いここを開削すると下知した。家臣は人力では無理ですと答えた。清盛は「なに人力に及ばすとや、天魔をも駆るべく、鬼神をも役すべし、天下何物か人力に依りて成らざるものあらんや、いでいで清盛が見事切り開いて見すべきぞ」と工事を決行した[13]

亀山神社が代拝し、後に清盛により厳島神社とともに再建されたという[17]。工事には連日数千人規模で行われ莫大な費用を要した[13]。工事は思ったように進まなかった。工事はあと少しで完成しようとしていたが、日は沈み観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと日は再び昇った。これで工事は完成した[5][16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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