韓国GM
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韓国GM
GM KOREA Company

種類株式会社
本社所在地 韓国
仁川広域市
設立2002年 8月 7日
業種製造業
事業内容自動車製造
従業員数15663人
主要株主 ゼネラルモーターズ 77% 韓国産業銀行 17% 上海汽車 6%
外部リンク ⇒http://www.gm-korea.co.kr/
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韓国GM
各種表記
ハングル:??GM
漢字:韓國GM
発音:ハングクジエム
英語:GM KOREA Company
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韓国GM(かんこくジーエム, GM Korea)はゼネラルモーターズ子会社の韓国自動車メーカーで、主にシボレーブランドを使用する。2011年第一四半期にGM大宇自動車技術 (GM Daewoo Auto and Technology) から当社名へ変更すると発表され[1][2]、2011年3月1日より正式に現在の社名での展開をスタートした。

スローガンは「CHEVROLET FIND NEW ROADS」。
目次

1 概要

2 歴史

3 生産拠点

3.1 閉鎖された生産拠点


4 車種一覧

5 過去の生産車種一覧

5.1 セナラ自動車時代の生産車種

5.2 新進自動車時代の生産車種

5.2.1 乗用車

5.2.2 バス

5.2.3 トラック


5.3 GMコリア時代の生産車種

5.3.1 乗用車

5.3.2 トラック


5.4 セハン自動車時代の生産車種

5.4.1 乗用車

5.4.2 バス

5.4.3 トラック


5.5 大宇自動車設立以後の生産車種

5.6 大宇国民車の生産車種

5.7 GM大宇に名称変更されてから生産が終了した車種

5.8 韓国GMに名称変更されてから生産が終了した車種

5.9 雙龍自動車の生産車種


6 日本メーカーとの提携

7 「セナラ自動車(現、韓国GM)疑惑事件」

8 その他

9 関連項目

10 出典・脚注

10.1 参考文献


11 外部リンク

概要

2000年に大宇自動車が経営破綻すると、アメリカのゼネラルモーターズ(GM)が旧大宇自動車の大部分を買収し、後に「GM大宇オートアンドテクノロジー」となる。「GMDAT(ジーエムダット)」とも呼ばれる(GMDATはGM Daewoo Auto & Technology Companyの略)。GMグループ内でコンパクトカーサブコンパクトカーの生産・開発を行っていた。2009年に親会社のGMが破綻の危機に瀕すると、GM大宇もまた経営危機に陥っていた[3]。2011年1月には「韓國GM」 (GM Korea) へと改称することが発表された[1]。なお、後述のようにこの会社は大宇の名が使われる以前にGMコリアという社名を使用していた時期があり、皮肉にも今回の大宇の名称が消えた名称変更でまたGMコリアを名乗ることとなった。

2000年代のGMは、欧州で販売するシボレーブランドの車種を韓国で生産、輸出して好調な売り上げを記録してきたが[4]、2014年以降、欧州市場のリストラを開始。欧州のシボレーブランドを廃止[5]してオペルとボクスホールに集約、やがてそれらブランドもPSAへ売却してコンパクトカーの生産から一歩引くこととなった。主力生産車種を失った韓国GMは、工場稼働率が低迷した群山工場の閉鎖を決定。2017年には2兆ウォンの赤字を出すようになったが、労働組合側は賃上げを求めて度重なるストライキで抵抗した[6]。2018年、韓国GMは撤退も視野に入れつつ韓国政府に支援を要求し始めた[7]
歴史

1937年 キム・ヤンジョにより、國産自動車(グクサン-、Guksan Automotive。英字資料ではNational Motorと訳される事もある)が、仁川にて創業。主に
貨物自動車の生産に従事[8]

1954年 金昌源(キム・チャンウォン、弟)・金済源(キム・ジェイウォン、兄)兄弟により、新進工業が設立される。創業当初は自動車部品の製造工場であったが、1958年からは朝鮮戦争アメリカ軍により使用されたジープの修理や改造に着手し始める[9]

1962年 在日韓国人実業家の朴魯貞(パク・ノジョン)により、"新しい国"を意味するセナラ自動車(de:Saenara Motor Company、??????)が設立される。朴正煕国家再建最高会議議長(後、大統領)による第一次五カ年計画の一環として韓国政府の支援の下、富平区に年産6000台を見込む新工場を設立[10]日産自動車と提携し、同年11月よりP312型ブルーバードを「セナラ」の名称でノックダウン生産する[11]。同年、新進工業も事業を拡大し、軍用トラックの部品を流用したマイクロバスの製造に着手、公共交通機関で採用される等の成功を収める[12]。同年、グクサン自動車が倒産。同社の最後の社長であった李敏禹(リ・ミンウ)が金昌源の誘いを受け、新進工業に専務として就任する[13]

1963年 5月、セナラ自動車はP312型セナラを2773台生産した段階で経営破綻。原因は韓国政府関係者による中間搾取により、工場の建設費用が当初予定の2倍を超えるほど膨れ上がった事。当時の韓国国内での販路の脆弱さから、建設費用を販売価格に転嫁できず、政府への借入金の支払いが行えなくなった事等も一因とされる[14]が、直接的な原因は金鍾泌が関わった後述のセナラ自動車疑惑事件であった。同年11月、新進工業はP312型セナラをデッドコピーする形で新星号の製造を開始する。新星号はセナラの2倍近い価格を設定した上に、エンジントランスミッションを始め多くの部品をジープの中古車から流用していた為、セナラと比較しても非常に故障しやすく、1966年の製造終了まで322台しか売れなかった[12][14]

1964年 新進工業が新進自動車(シンジン-、en:Shinjin_Motors、?????)と改称。同年10月、同社専務がトヨタ自動車を訪れた事が契機となり、トヨタとの間に技術供与契約の「仮調印」を行う。仮となっているのは同年の段階で日韓間の国交が回復していなかったためとされる[13]

1965年 7月、韓国政府は韓国車の部品の国内製造比率を、1967年までに90%以上とする事を目標にした三ヵ年計画を策定。その計画の一環として、新進自動車を小型車生産の独占企業に指定し、旧セナラ自動車の製造施設の買収を働きかける事となる。同年11月、新進工業がセナラ自動車の製造施設を取得するも、セナラの経営破綻の時点で日産自動車との提携関係が消滅していた為、翌年のトヨタとの提携までの繋ぎとして、新三菱重工業から100台分の"Gold"モデル(三菱・コルト1000の誤読とみられる)のノックダウン生産部品を輸入する。新進によるセナラ買収では韓国政府によるかなり露骨な後押しがあったようで、他の韓国車メーカーからは大いに顰蹙を買ったという[15]石坂芳男の回想によると、「日韓基本条約締結直後の韓国では外貨が不足していた事もあり、当時経営トップであった弟の社長が病気療養中に、兄の会長が勝手に三菱とのノックダウン契約を決めてしまった。」らしく、これに対してトヨタ自販神谷正太郎は、元衆議院議員朴春琴を通じて朴正煕に抗議の書簡を送り、三菱の部品輸入禁止措置を取らせる事で、新進に三菱との契約継続を断念させたという。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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