韓国仏教
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仏教
各種表記
ハングル:??
漢字:佛ヘ
発音:プルギョ
ローマ字転写:Bulgyo
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佛教を護法した高麗朝時代(918年-1392年)に製作された高麗八万大蔵経の版木高麗朝時代(918年-1392年)の968年に開山した普賢寺の境内に存在する八角十三層石塔高麗朝時代(918年-1392年)の1372年に白雲和尚景閑が著したの註釈書『直指心体要節

朝鮮の仏教(ちょうせんのぶっきょう)は、朝鮮半島周辺に展開し、特に華厳教学との受容と展開について独自の特徴を持つ、現在でも同地で盛んな仏教の総称。
特徴

朝鮮半島に展開された仏教の独自性については、多くの議論がある。たとえば鎌田茂雄は「思想的には様々な教学を融合させて一つにする綜合仏教であり、信仰としては仏教以外の道教風水信仰、巫覡信仰などが結合した複合的な信仰である」と述べている[1]
歴史
三国時代の初期仏教

朝鮮半島への仏教の伝来は、4世紀後半に魏晋南北朝時代中国から、様々な経路を経て高句麗百済新羅に伝搬した。『三国遺事』『三国史記』によると、仏教は胡人の僧阿道の手により高句麗と新羅にもたらされた[2]

高句麗へは372年小獣林王2年)に、前秦王苻堅胡人の僧順道を派遣したことが初伝であり、この時期には般若系の思想や格義仏教が伝わっている。また、高句麗から中国に留学した僧郎は、武帝の下で三論宗の基礎を築いた[1]

百済へは384年枕流王元年)に東晋から摩羅難陀が来訪したことが初伝となる。5世紀にはインドへ留学した謙益が『阿毘曇蔵』と『五分律』を持ち帰り、の研究が進んだ。また、南岳慧思から学んだ玄光による法華信仰や、弥勒信仰が行われた。

新羅への伝搬は諸説あるが、528年法興王14年)に、高句麗からもたらされた仏教の受容を訴えた異次頓(朝鮮語版)の殉教を経て公認されたという説が有力である[1]

五胡十六国時代から南北朝時代の中国から伝えられ、これら三国においてはその後の律令制度の整備に伴い、国家建設の理念としての役割を果たすようになった点が特徴的である。特に新羅においては、護国仏教としての性格が強いのが特徴で、の侵攻に対し先頭に立って人民に徹底抗戦を促して、新羅の朝鮮半島統一に大きな影響を与えた。この時代の仏教は、三論宗、律宗、涅槃宗がまず伝わり、次に円融宗、華厳宗、法性宗が伝わった。この他、主なものに法相宗、小乗宗、海東宗、神印宗などがあった。

三国時代の末期から統一新羅の初頭にあたる7世紀は、東アジア全域での仏教の最盛期であり、僧侶の往来も盛んに行われ、朝鮮からも多くの学僧を輩出した[1]円測613年 -696年)は627年に入唐し、玄奘に師事して唯識学を学んだ。円測は帰国せず唐で没したが、唯識学の学統を築いた[1]元暁617年 -686年)は、『十門和諍論』の中で仏法は一観であり、説けば十門となる。百種類の異論を調和させて、一味の法海に至るようにする(和百家之異諍 歸一味之法海)と、根本的な唯一の仏法を「和諍」の思想から世に提示した。また、海東華厳の祖と言われる義湘625年 -702年)は、唐の智儼の下で学び、帰国後に華厳宗の根本道場となる浮石寺を建立し、統一新羅を支える国家仏教を確立した[1]

6世紀の中ごろ、百済を経由して日本にもたらされた仏教も、「インド仏教」そのままのものではなく、中国において再構成された「中国仏教」であったことは、百済から日本の天皇に送られた「仏像経巻」が、金銅仏であり、漢訳仏典であることに注意すれば、これ以上の多言を要さない[3]
統一新羅時代

統一新羅の時代にも中国に渡る僧は続き、末期にかけて唐から禅が伝来した。特に新羅第40代の哀荘王の時代(808年)には、法朗が禅宗四祖道信の教えを伝え、813年憲康王5年)には、曹渓南禅系の馬祖道一の門下である智道の教えを道義が伝えた。その後も同様に、洪陟・円鑑玄c・忍寂恵哲・通暁梵日・大朗慧無染・哲鑑道允・真徹利厳らが、曹渓南禅系の教えを伝え、九山禅門が成立した。
高麗時代

後三国時代を経て、朝鮮半島には高麗王朝が成立した。高麗時代の朝鮮半島の仏教はシャーマニズム道教のような自然信仰の仏教に変化した。高麗王朝によって鎮護国家の法として仏教が重視されて王都の興王寺など多数の寺院が造営されるなど仏教が保護された。[4]国王や両班の参列の下に燃灯会や八関会などの仏教儀式が盛んに行われた。[5]しかし、新しく伝えられた禅宗と、従来から存在する教宗は、次第に対立する様相も呈した。

これを憂えた義天は、に入って慈弁から天台の教えを受けて帰国し、依教禅を説いて、天台と華厳の教学によって禅を包摂する禅教融摂運動を起こした。義天の教えは天台宗として引き継がれ、高麗の王室をはじめとした上流階級に支持された。これに対して、義天の半世紀後に知訥は、禅によって天台・華厳などの教学を包摂する教えを説いた。教えによって仏門に入り、その後に言葉を離れて参禅するという知訥の教えは、曹渓宗として引き継がれ、一般民衆の間に浸透していった。

これらの努力により高麗時代には、禅とともに教学も同等に重視する教義が中心となって続いた。今に伝わる高麗八万大蔵経が編纂されたのもこの頃で、モンゴル帝国の侵攻により危機感を抱いた天台宗およびそれを支持する上流階級が主に事業を推進した。一方、曹渓宗の僧侶は山に入り、参禅と学習にいそしむようになった。

高麗中期以降、仏教界はこの天台宗と曹渓宗が主流となっていたが、権力と結びついていた天台宗は次第に堕落し、徐々に上流階級からも批判されるようになって、李氏朝鮮時代の排仏運動と儒教の隆盛につながっていく。
李氏朝鮮時代の仏教弾圧

李氏朝鮮時代に入ると、一転して儒教が国教となったため、仏教は徹底的に弾圧された。初期には王族の保護を受けたが、士林派の集権で弾圧が強化された。僧は都の漢陽に入ることを禁止された上、賎民階級に身分を落とされた。また、全国に1万以上もあった寺院は242寺に限定され、その他の寺院は所有地と奴卑を没収され、また多くが破壊された。さらに、第3代太宗の時代の1407年(太宗7年)には、12宗が7宗88寺院(曹渓宗天台宗・ハ南宗・華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗)に[6]、次の世宗の治世(世宗6年・1424年)にはその7宗派も曹渓宗天台宗・ハ南宗を統合して禅宗、華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗を統合して教宗と、2宗派にまとめられた。88の寺院は、禅宗18寺院・教宗18寺院の計36寺院を残し廃寺となり、この時期に朝鮮半島の仏教は著しく衰退した[7]

太宗7年の弾圧の際、存続できた88寺院

曹渓宗24寺梁州通度寺・松生雙巖寺・昌寧蓮花寺・砥平菩提岬寺・義城氷山寺・永州鼎覺寺・彦陽石南寺・義興麟角寺・長興迦智寺・樂安澄光寺・谷城桐裏寺・減陰靈覺寺・軍威法住寺・基川淨林寺・靈巖道岬寺・永春コ泉寺・南陽弘法寺・仁同嘉林寺・山陰地谷寺・沃州智勒寺・耽津萬コ寺・陽長谷寺・稷山天興寺・安城石南寺


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