韓国の民族主義(かんこくのみんぞくしゅぎ)では、大韓民国(日本統治時代以前の朝鮮を含む。)における民族主義を扱う。また、一部朝鮮民主主義人民共和国についても及う。 韓国の民族主義は世界唯一の単一民族を自称し、朝鮮民族と朝鮮文化の優位性を強調した教育にもとづく世界認識によるところが大きく、近年では漢江の奇跡に始まる経済成長の成功で韓国の国際的地位は日本よりも高くなるべきとの認識を持っている。反日感情は、小中華思想と上記の様な意識に支えられた優越感、自信や尊厳が損なわれる事象(政治的問題)が発生することにより顕在化するものと分析されている。特に「他民族の善政よりも同族の悪政」という民族主義教育が行われている両朝鮮半島国はイギリス統治時代を知る香港の人々によって、同族の悪政である北朝鮮や朝鮮時代を日本統治時代より評価するのは、太平洋戦争以前の日本統治時代を否定する偏向教育を受けた為であると指摘されている[1][2]。 宮脇淳子は、「初めて朝鮮半島の人々に民族意識が芽生えたのは、彼らは認めたくないとしても、1910年の日韓併合以降です。日本文化が急激に入ってくることで日本人との違いを知り、自分たちのアイデンティティが生まれました。それまで彼らはずっと、シナを仰ぎ見る事大主義、小中華主義の中で、何の疑いもなくシナ文明の範疇のもとで生きてきました。異分子である日本という鏡を得て、初めて『朝鮮民族』が生まれたのです。筑波大大学院教授・古田博司は、さらに韓国が『島化』したことを指摘しています。日韓併合でシナからもぎ取られていきなり近代に放り込まれ、日本の敗戦後は38度線で分断されて島になった。その島では、中国の属国だったという記憶が風化して民族主義が台頭しますが、もともとシナと一体化していた地域が、急に国民国家になろうと思ったら歴史を改竄するしか方法がない。もともと自律性があって自分たち独自の文化に正統性があるというようなウソをつくり上げるしかないとおっしゃっています。その意味では、今、韓国は歴史ドラマという手段で、新たな建国神話をつくり上げている最中だといえるのかもしれません」と指摘している[3]。 朝鮮半島の歴代王朝は長期間に渡って中国大陸の歴代王朝に服属・朝貢しており、例えば新羅は北斉(北朝)・陳(南朝)・隋・唐に朝貢し、高麗は宋・契丹(遼)・女真(金)・明に朝貢、元に服属し、李氏朝鮮は明・清に朝貢していた(日清戦争まで)。これらの歴代王朝の多くは中国歴代王朝による冊封を受け(中国朝鮮関係史参照)、中華文化を非常に尊ぶ事大主義と[4]、自らを中国文明(大中華)に次ぐ「小中華」であるとする「小中華思想」を持ち、周辺国である日本や琉球や満洲を文化的に劣等な夷狄とみなしていた。江戸時代に日本を訪れた朝鮮通信使たちは、「男子はみな半幅の青布でへそから下を被っている。はなはだしいのになると隠さない[5]」、草履は、「前部に一本の縄があって、そこに足指を掛けて挟んで歩く。その形はひどく奇怪である。足袋は蛇の舌のようである[6]」などと日本の風習を夷狄視する記述を見せている。また『日東壮遊歌』の中で、小中華思想の上では文化的に劣等で野蛮でなければならない日本が発展していることに対して、次のようにあからさまな感情を記述している。『日東壮遊歌』現代語訳 このような観念的な根強い小中華思想がある上に、近代に入ると「文化的に劣等な野蛮人」でなければならない日本人に韓国併合をされたことから、より強い反日感情と民族主義が形成された[20]。 日清戦争で清国が日本に敗北すると、李氏朝鮮は中国歴代王朝による冊封体制から解放され、大韓帝国と国名を変更させる。皇帝に即位した高宗がロシアに送った親書には、自国と日本の関係を以下のように記している。大韓帝国は4000年の歴史を持つ独立国家である一方、日本は1200~1300年代に入ってやっと国家を樹立した。日本のさまざまな風習は朕(皇帝が自らを指し示す言葉)の国から由来し、文字も朕の国民が教えた。日本人たちは自分たちの先祖のように朕の国を尊敬し、朕の国とあえて敵対的関係を結ぶ考えもできなかった[21]。 李栄薫は、朝鮮に民族という観念が初めて導入されたのは日本統治時代のことであり、日本による抑圧と差別の中で生まれた新しい共同体意識が朝鮮の民族主義であるとした。朝鮮の民族主義が日本の民族意識と大きく異なるのは、それが親族の拡大形態として受容されたことにあり、それをたどれば「我々はみな檀君の子孫であるという民族意識」に至る。特に両班においてこの観念は拭いがたく強固であり、「族譜」の壮大な拡大バージョンが朝鮮民族であると指摘している。 「個人は全体に没我的に包摂され、集団の目標と指導者を没個性的に受容します。このような集団が種族です。このような集団を単位にした政治が『種族主義』です。私は、韓国の政治はこのような種族主義の特徴を強く帯びていると考えます。(中略)このような韓国の政治文化が、対外的に日本との関係に至ると、非常に強い種族主義として噴出します」 「反日種族主義は一九六〇年代から徐々に成熟し、一九八〇年代に至り爆発しました。自律の時代に至り、物質主義が花開いたのと軌を一にしました。反日種族主義に便乗し、韓国の歴史学界は数多くの嘘を作り出しました。この本が告白したいくつかは、そのほんの一部に過ぎません。嘘はまた反日種族主義を強化しました。過ぎし三〇年間、韓国の精神文化はその悪循環でした。その中で韓国の精神文化は、徐々に低い水準に堕ちて行きました」と述べている[22]。 鄭安基(高麗大学)は、「果たして民族意識が皇民化政策によって、そんなにもたやすく抹殺されるものなのか、についても疑問です。実は民族とは、二〇世紀初葉に朝鮮人が日本の統治を受けるようになってから発見された、想像の政治的共同体です。実体性が欠如した想像の集団意識であるため、民族はむしろ強靭な生命力を持っています。我々は檀君を始祖とした拡大家族としての運命共同体だ、という歴史意識がまさにそれです。朝鮮人は、植民地期を経ながら民族としての『正体/民族的アイデンティティ』を発見し、彼らの歴史と伝統文化に対し自負心を持ち始めました」「そのせいか一九四〇年に朝鮮総督府は、『風俗・慣習・言語・意識の次元にまで及ぶ朝鮮人の完璧な皇民化は、少なくとも三〇〇年の歳月を要する至難の課題だ』と言っています。一朝一夕に朝鮮人の強固な民族意識をそぎ落とし、日本人に改造することはできない、と見たのです。それで皇民化政策は突飛にも、多くの朝鮮人にとってまだ馴染みのなかった檀君神話をはじめ、新羅の花郎や朝鮮王朝期の李舜臣などを呼び出し、朝鮮人の民族意識を鼓吹しました。民族の神話・叙事 大韓民国建国後においては、当初から民族主義は「反日主義」一辺倒で「日帝に対する闘争」を掲げることで民族の紐帯を醸成していった[24]。 初代から3代目までの大統領となった李承晩は日本統治時代の朝鮮を容認する思想を持った者や発言した者に対して徹底的な投獄・拷問・処刑を行った。 大韓民国成立後の2年だけで、政治犯として投獄された者の総数は日本統治時代の約30年間の投獄者数を超えた。 また李承晩が失脚した3年後に大統領に就任して同じく独裁体制を築いた朴正煕は、朝鮮史における事大主義と属国性を自覚し、自著『国家・民族・私』で次のような言葉を遺している[25]。* 「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」 また、自著『韓民族の進むべき道』で、李氏朝鮮について次の言葉を遺している[26]。* 「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」 さらに、自著『韓民族の進むべき道』で、韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として次の問題を挙げている[27]。* 事大主義 朴正煕はこのような問題を払拭するために、独裁体制(維新体制)を確立すると「国籍ある教育」を掲げ、歴史教育の目的として「民族の中興の使命を達成するための主体的民族史観」が謳われるようになった。 朴暗殺後の1980年代から韓民族優越主義が台頭し始め、韓国の超古代史が綴られたとされる自称歴史書『桓檀古記』が「活字として改めて出版」され、ソウルオリンピックや2002 FIFAワールドカップなどのスポーツ関係の祭典の挙行、OECDの加盟等の経済力の増大と共に韓民族優越主義を肥大化させていった。
概要
李氏朝鮮時代
大坂での記述より
(多くの船が)一斉に行き来する様は驚くばかりの壮観である。その昔、楼船で下る王濬が益州を称えた詩があるが、ここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう[7]。
流れの両側には人家が軒を連ね、漆喰塗りの広い塀には鯨の背のような大きい家を金や紅でたくみに飾り立てているが、三神山の金闕銀台(きんけつぎんだい:仙人の住処のこと)とは、まことのこの地のことであろう[8]。
本願寺に向かう道の両側には人家が塀や軒をつらね、その賑わいのほどは我が国の鍾絽(チョンノ:ソウルの繁華街)の万倍も上である[8]。
館所に入る、建物は宏壮雄大、我が国の宮殿よりも大きく高く豪華である[9]。
我が国の都城の内は、東から西にいたるまで一里といわれているが、実際には一里に及ばない。富貴な宰相らでも、百間をもつ邸を建てることは御法度。屋根を全て瓦葺にしていることに 感心しているのに、大したものよ倭人らは千間もある邸を建て、中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き、黄金を以って家を飾り立てている。 その奢侈は異常なほどだ[10]。
天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである[11]。
この国では高貴な家の婦女子が厠へ行くときはパジ(ズボン状の下着のこと)を着用していないため、立ったまま排尿するという。お供のものが後ろで、絹の手拭きを持って立ち、寄こせと言われれば渡すとのこと。聞いて驚きあきれた次第[11]。
京での記述より
沃野千里をなしているが、惜しんであまりあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ[12]。
倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、宮殿の草花などを愛でながら、月の半分は斎戒し、あとの半分は酒色に耽るとか[13]。
尾張名古屋での記述より
その豪華壮麗なこと大坂城と変わりない。夜に入り灯火が暗く、よくは見えぬが、山川迂闊にして人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、沿路随一とも言える。中原にも見当たらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べればさびしい限りである[14]。
人々の容姿の優れていることも 沿路随一である。わけても女人が 皆とびぬけて美しい。明星のような瞳、 朱砂の唇、白玉の歯、 蛾の眉、茅花(つばな)の手、蝉の額、氷を刻んだようであり 雪でしつらえたようでもある。趙飛燕や楊太真が万古より美女と誉れ高いが、この地で見れば色を失うのは必定。越女が天下一というが、それもまこととは思えぬほどである[15]。
(復路にて)女人の眉目の麗しさ、倭国第一といえる、若い名武軍官らは、道の左右で見物している美人を、一人も見落とすまいと、あっちきょろきょろこっちきょろきょろ、 頭を振るのに忙しい、まるで幼児のいやいやを見ているようであった[16]。
江戸での記述より
楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様、橋や船にいたるまで、大坂城、西京(京都)より三倍は勝って見える。女人のあでやかなること 鳴護屋に匹敵する[17]。
(将軍との謁見について)堂々たる千乗国の国使が礼冠礼服に身を整え、頭髪を剃った醜い輩に四拝するとは何たることか[18]。
(将軍家治について(著者は直接見ていない))細面で顎がとがり、気は確かなようだが、挙動に落ち着きが無く、頭をしきりに動かし、折り本をもてあそび、やたらにきょろきょろとして、泰然としたところがない[19]。
大韓帝国時代
日本統治時代
大韓民国建国以後
独裁体制の時代
「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」
「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」
「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」
「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
怠惰と不労働所得観念
開拓精神の欠如
企業心の不足
悪性利己主義
名誉観念の欠如
健全な批判精神の欠如
近年「クッポン」も参照
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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