韓国映画(かんこくえいが)は、韓国国籍を持つ者または韓国の法人によって製作された映画で、ほとんどの場合、韓国人の映画スタッフと俳優で構成され、主に韓国国内の映画館などで公開される映画を指す。 1970年代後半の韓国はテレビはまだ白黒モノラル放送で[1]、他の大衆娯楽がゆたかになるにつれ、日本と同様、映画の製作本数は減ってはいたが、まだ映画は大衆娯楽の雄であった[1]。1977年まで映画の制作会社は14社あり、1978年に6社増え計20社となった[1]。独立プロはなかった[1]。上映状況に合わせて政府側から製作本数の調整要請があり、例年1社が年6本程度の製作であるが、1979年は1社5本という要請があり、年間計100本の製作を予定された[1]。劇場は1979年に韓国全土で約500館[1]。輸出は香港、台湾、アメリカの一部で、日本へは全く輸出されていなかった[1]。マーケットがまだ小さく、作品が完成してもすぐ封切りにならず、未封切作品も多かった。当時日本の大手映画会社は興行不振が続き、自社製作を減らしていたため、映画のスタッフが撮影所でテレビ映画を撮ることが多かったが、当時の韓国はテレビ映画は全くなく、テレビドラマは全てテレビ局のスタッフが局のスタジオ等で撮影していた[1]。この頃、韓国で人気があった映画はアイドル歌手・へウニ主演の『私だけを愛して』のような青春もの、『私がすてた女』、『O嬢のアパート』等の女性映画、文芸ものなどが多く製作されヒットしていた[1]。日本映画は1本も輸入されず、1978年12月に岡田茂日本映画製作者連盟会長らが来韓し、韓国の映画関係者を集めて日本映画鑑賞会を開き、『幸福の黄色いハンカチ』と『柳生一族の陰謀』を試写し、政府の要人にも会い、両国の映画交流を活性化したいと日本映画の見本市を開く提案等をした[1]。 韓国の映画史において重要な出来事が3つあった。1992年、サムソンが出資した 『?? ??? アジアでも有数の規模である釜山国際映画祭は、国内の映画振興にも大きな影響を及ぼしている。そのほか、全州国際映画祭、富川国際ファンタスティック映画祭など韓国国内各地で中小規模の映画祭が開かれている。 世界三大映画祭での主な受賞歴は以下。
歴史
ニューウェーブ
映画祭
第44回ヴェネツィア国際映画祭
第55回カンヌ国際映画祭(2002年)でイム・グォンテク監督『酔画仙』が監督賞
第59回ヴェネツィア国際映画祭(2002年)でイ・チャンドン監督『オアシス』 が銀獅子賞(監督賞)
第61回ヴェネツィア国際映画祭(2004年)でキム・ギドク監督『うつせみ』 が銀獅子賞(監督賞)、第54回ベルリン国際映画祭(2004年)で同監督の『サマリア』が銀熊賞(監督賞)
第57回カンヌ国際映画祭(2004年)でパク・チャヌク監督『オールド・ボーイ』が審査員特別グランプリ
第57回ベルリン国際映画祭(2007年)でパク・チャヌク監督『サイボーグでも大丈夫』がアルフレッド・バウアー賞