韓国における政党史では、1945年8月の解放(光復節)以後、現在までの韓国における政党の変遷過程について説明をする。 8月15日の解放以後、呂運亨を中心に左翼・中道勢力が「建国準備委員会」(略称:建準)を結成、一方の保守民族主義勢力は国民大会準備会(アメリカ軍の仁川上陸を翌日に控えた9月7日、宋鎮禹や金性洙、徐相日
解放直後から大韓民国建国まで
表1:1947年8月現在の南朝鮮における
政党・社会団体の政治的立場分布 右翼中道右翼中道中道左翼民戦
(左翼)
政党数44189641
全党員数
(千名)12,4834,0282,8824,60914,450
出典:“法政大学出版局『韓国現代政治の条件』崔章集著・中村福治訳”の81頁上段の図より政党数と党員数を引用して作成した。
左派勢力と右派勢力がしのぎを削る中、1947年3月のトルーマン・ドクトリンに始まる米ソ冷戦の激化で、米国は信託統治や左右合作による南北統一政府樹立方針から南朝鮮のみでの単独政府樹立に方針を転換し、左派勢力に対する弾圧を強化したことで、左派勢力は地下潜行を余儀なくされた。また中道勢力は、左右対立の真只中で両派からの攻撃を受け、分裂を繰り返し、両派に修練していくことになった。1948年5月10日に行われた初代総選挙には、単独政府を主張してきた韓民党と李承晩を総裁とする大韓独立促成国民会(独促)やそれに近いグループのみが参加し、金九ら南北協商派や金奎植など中道勢力は選挙への参加を拒否した。そのため、制憲国会では李承晩を支持する右派勢力が圧倒的多数を占めた。しかし、李承晩を支援してきた韓民党は、議院内閣制導入や国務委員(閣僚)の配分をめぐって、袂を分かつことになった。 李承晩大統領は就任当初、超然主義を採り、与党(この場合の与党は大統領本人が所属している政党)を持たなかった。しかし、朝鮮戦争直前に行われた第2代総選挙(1950年5月30日)にて前回選挙をボイコットした南北協商派や中間派が参加し、李承晩と距離を置く無所属候補が多数当選した。そのため、李承晩は自身の与党となる「自由党」を結成し、1952年に半ば脅迫的な手段で間接選挙から直接選挙制にするための憲法改正を実施した(釜山政治波動)。 自由党は、政府の強い影響下にあった大韓婦人会 1954年の四捨五入改憲をきっかけに、民国党や自由党から排除された勢力や反李承晩無所属勢力を結集した「民主党」(1955年9月)が結成された。翌1956年の正副大統領選挙では、選挙運動最中に正大統領候補の申翼熙が遊説中に急死する悲運に見舞われたが、副大統領候補の張勉が自由党の李起鵬候補を破って当選を果たし、李承晩政権への不満を反映する結果となった。直後に行われた地方選挙では市・邑・面の首長および議会選挙で自由党が圧勝したが、ソウル特別市・道議会選挙では民主党がソウル特別市議会で圧勝、その他の都市部でも優位に立った。2年後の第4代総選挙(1958年5月2日)では、自由党は過半数を維持したものの、都市部を中心に民主党が躍進して憲法改正阻止線である三分の一を単独で確保することに成功した。“圧倒的な資金力と人的動員力を誇り、農村部を地盤とする政府党”と“都市部を地盤とし、資金力と人的動員力に劣る保守野党”を主軸とした第六共和国までの韓国における政党政治の基本的構図(与村野都)がこの選挙で形成されることになった。
第一共和国時代の政党体制
「自由党」結成
統合野党「民主党」結成