韓信
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この項目では、中国の楚漢戦争期の武将、淮陰侯の韓信について記述しています。その他の同名の人物については「韓信 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

韓信
淮陰侯韓信(『晩笑堂竹荘畫傳』)
前漢
淮陰侯
出生不詳
淮陰
死去紀元前196年
長安城未央宮
?音Han Xin
爵位斉王楚王→淮陰侯
官位(楚)郎中→(漢)連敖→治粟都尉→大将軍
主君項梁項羽劉邦
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韓 信(かん しん)は、中国末から前漢初期にかけての武将劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良蕭何と共に漢の三傑の一人。

なお、同時代に戦国時代の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される[1]
生涯
生い立ち

淮陰(現在の江蘇省淮安市淮陰区)の人[2]。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった[2]。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけ。お礼なんていいわよ」と語ったという。

ある日のこと、韓信は町の若者に「てめえは背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って若者の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。その韓信は、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる[3]

秦の始皇帝の没後、陳勝・呉広の乱を機に大規模な動乱が始まると、紀元前209年に韓信は項梁、次いでその甥の項羽に仕えて郎中(華北では中郎(中佐))となったが、たびたび行った進言が項羽に用いられることはなかった。
劉邦配下として

紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された王劉邦の元へと移る。しかし、ここでも連敖(接待係)というつまらぬ役しかもらえなかった。

ある時、韓信は罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった。たまたま刑場に劉邦の重臣の夏侯嬰がいたので、「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ」と訴え、韓信を面白く思った夏侯嬰は、韓信を助命し劉邦に推薦した。

劉邦は韓信を治粟都尉としたが、韓信に対してさほど興味は示さなかった。漢の内政を統べる蕭何は、韓信と語り合い、奇才と認めた。蕭何は何度も韓信を推薦したが、劉邦はやはり受け付けなかった。

この頃の漢軍では、辺境の漢中にいることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追い、追いつくと「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した。ちょうど、辺境へ押し込まれたことと故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中であったため、劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した。蕭何は「逃げたのではなく、韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」と問い詰めた。これに対して、蕭何は「韓信は国士無双(他に比類ない人物)であり、他の雑多な将軍とは違います。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠です」と劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する上将軍に任命して、軍権を委ねることにした。高祖元年(紀元前206年)4月のことである。

韓信はこの厚遇に応え、劉邦に漢中の北の関中を手に入れる策を述べた。即ち、

項羽は強いが、その強さは弱めやすいものである(婦人の仁、匹夫の勇:実態の伴わない女のやさしさ、取るに足らない男の勇気)。劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられる。

特に処遇についてかなり不公平であり、不満が溜まっている。進出する機会は必ず訪れる。

兵士たちは故郷に帰りたがっており、この気持ちは大きな力になる。

関中の三秦の王は20万の兵を見殺しにした元将軍たちであり、人心は離れている。その逆に劉邦は、以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気があるため、関中はたやすく落ちる。

と説いた。劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。

劉邦はこの年の8月に関中攻略に出兵、油断していた章邯を水攻めで撃破して、桃林で自害に追い詰め、さらに司馬欣董翳も撃破した。そして関中を本拠地として、韓王の鄭昌を降して項羽との対決に臨んだ。

その頃、各地で項羽の政策に反発する諸侯による反乱が相次ぎ、項羽はその対応(特に)に手を焼いていた。紀元前205年、その隙を突いて、劉邦は総数56万と号する諸侯との連合軍を率いて親征し、項羽の本拠地・彭城を陥落させた。しかし連合故に統率が甘く更に油断しきっていたため、斉から引き返して来た項羽軍の3万に奇襲され大敗。劉邦は命からがら?陽に逃走した(彭城の戦い)。韓信も敗戦した漢の兵をまとめて?陽で劉邦と合流し、追撃してきた楚軍を京・索の中間周辺で迎撃。楚軍をこれ以上西進させなかった。
躍進

体勢を立て直した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に韓信の別働軍が諸国を平定するという作戦を採用した。まずは、漢側に就いていたが裏切って楚へ下った西魏王の魏豹を討つことにし、劉邦は韓信に左丞相の位を授けて、副将の常山王張耳と将軍の曹参とともに討伐に送り出した。

魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信はその対岸に囮(おとり)の船を並べてそちらに敵を引き付け、その間に上流に回り込んで木の桶で作った筏(いかだ)で兵を渡らせて魏の首都・安邑(現在の山西省運城市夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを討って魏豹を虜にし、魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。

その後、北に進んで代(山西省北部)を占領し、さらに(河北省南部)へと進軍した。この時、韓信は河を背にした布陣を行う(背水の陣:兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものではなかった)。20万と号した趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で打ち破り、陳余を?水で、趙王歇を襄国で斬った(井?の戦い)。続いて、趙の将軍であった李左車を探し出して捕らえ、上座を用意して李左車を先生と賞し、これからのことを相談した。李左車は「『敗軍の将は兵を語ってはならず、亡国の臣は国家の存続を計ってはならない』と聞きます。私は敗軍の将、亡国の臣です」と初め自分の考えを述べることに躊躇したが、韓信は「趙が敗れたのは、先生の策を入れなかった趙王と陳余にあり、先生にあるのではありません。もし先生の策が用いられていれば、私はここに居ないでしょう」と更に賞した。これに李左車は「『智者も千慮に一失有り。愚者も千慮に一得有り』とあります」と愚者の策であると前置きした上で、「次に進むとすれば燕ですが、このままでは敗れます。兵が疲労しきっているからです。まずは趙兵の遺族を慰撫し、その返礼と十分な休息を兵に与えます。燕は趙軍を少数の兵で下した漢軍を非常に恐れており、趙兵の遺族を使者として送り、利を説けば降るでしょう。降らなければ、休息十分な兵を向ければよいのです」と燕を下す策を与えた。そしてその策に従い、労せずして(河北省北部)の臧荼を降伏させた。紀元前204年、鎮撫のために張耳を趙王として建てるように劉邦に申し出て、これを認められた。

この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足の劉邦に対して幾度も兵を送っていた。しかし、それでも苦境にあった劉邦は、楚に包囲された成皋から脱出し黄河を渡ると、夏侯嬰らとともに韓信たちがいた修武(現在の河南省焦作市修武県の西北)へ赴いた。その際、幕舎で寝ている韓信の所に忍び込んで、その指揮権を奪った。韓信は、起き出して仰天した。劉邦は張耳ら諸将を集めて、韓信を趙の相国に任じて曹参とともに斉を平定するように命じた。

ところが劉邦は、韓信を派遣した後で気が変わり、儒者の?食其を派遣して斉と和議を結んだ。紀元前203年、韓信は斉に攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとした。この時、韓信の軍中にいた弁士?通は「(劉邦から)進軍停止命令は未だ出ておらず、このまま斉に攻め込むべきです。?食其は舌だけで斉を降しており、このままでは貴方の功績は一介の儒者に過ぎない?食其より劣る(斉は70余城を有し、韓信の落とした50余城より多い)と見られることでしょう」と進言し、韓信はこの進言に従って斉に侵攻した。備えのなかった斉の城は次々と破られ、怒った斉王の田広は?食其を釜茹でに処して高密に逃亡した。

斉は楚に救援を求め、項羽は将軍龍且と副将周蘭に命じて20万の軍勢を派遣させた。龍且は周蘭から持久戦を進言されたが、以前の「股夫」の印象に影響され、韓信を侮って決戦を挑んだ。韓信も龍且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い?水という河が流れる場所を戦場に選んで迎え撃った。この時、韓信は決戦の前夜に?水の上流に土嚢を落とし込んで臨時の堰を作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は敗走を装って龍且軍をおびき出し、楚軍が半ば渡河した所で堰を切らせた。怒涛の如く押し寄せた奔流に龍且の20万の軍勢は押し流され、龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭も曹参の捕虜となった。

斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のため斉の仮の王となりたいと申し出た。劉邦は、自分が苦しい状況にあるのに王になりたいと言ってきた韓信に身勝手であると激しく反発したが、張良と陳平に認めなければ韓信は離反し斉王を自ら名乗って独立勢力となると指摘され、一転、懐柔のために「仮の王などとは言わずに、真の王となれ」と韓信に伝え、斉王韓信を認めた。


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