韋孝寛
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韋孝寛

韋 孝寛(い こうかん、509年 - 580年12月19日)は、北魏末から北周にかけての軍人。名は叔裕[1]。孝寛はであり、字をもって通称される。本貫京兆郡杜陵県
経歴

北魏の南?州刺史の韋旭の子として生まれた。弱冠にして蕭宝寅に属した。527年孝昌3年)、蕭宝寅が関右で反乱を起こすと、孝寛は朝廷側について、軍の先鋒に志願し、統軍に任じられた。長孫稚の西征に従い、戦功を挙げて、国子博士・行華山郡事となった。楊侃が大都督として潼関に駐屯すると、孝寛はその下で司馬として召し出された。楊侃にその才能を認められて、その娘を妻に迎えた。永安年間、宣威将軍・給事中に任じられた。まもなく山北県男の爵位を受けた。普泰年間、荊州刺史源子恭の下で都督となり、襄城に駐屯した。功績により、析陽郡太守に任じられた。この頃、新野郡太守であった独孤信と友情を結び、荊州において「連璧」と称された。

534年永熙3年)、宇文泰原州から雍州に向かうと、孝寛はその下で従軍した。535年大統元年)、潼関で東魏軍を破り、弘農郡太守に任じられた。537年(大統3年)、竇泰を破り、左丞を兼ね、宜陽の軍事を統制した。洛陽を占領すると、孝寛は独孤信とともに洛陽城に入った。東魏の潁州長史の賀若統らが西魏に降ると、孝寛は宇文貴怡峯らとともに応接にあたり、攻撃をかけてきた東魏の任祥堯雄らの軍を潁川で撃退した。孝寛は平楽口に進み、東魏の豫州を下し、刺史の馮?を捕らえた。

538年(大統4年)、河橋・?山の戦いに従軍した。西魏が洛陽を失陥すると、孝寛は大将軍・行宜陽郡事となり、秩序の回復を図った。まもなく南?州刺史に転じた。

この年、東魏の段?・堯傑が再び宜陽を占拠し、東魏の陽州刺史の牛道恒が国境地帯の住民を扇動していた。そこで孝寛は諜者を派遣して牛道恒の筆跡を入手し、牛道恒と孝寛が書状をやりとりしていたように偽作して、段?の手に渡るよう手筈した。このため段?は牛道恒を疑うようになり、離間策の効果を見た孝寛は奇襲をかけて、牛道恒と段?を捕らえた。

539年(大統5年)、爵位を侯に進めた。542年(大統8年)、晋州刺史に転じた。まもなく玉壁に移鎮し、摂南汾州事を兼ねた。西魏の統治に反抗していた山胡の帰順を図り、大都督に進んだ。

546年(大統12年)、東魏の高歓が西征の軍を発し、玉壁を攻撃した。玉壁の包囲は50日間に及んだが、孝寛の防戦の功は目覚ましく、高歓の軍を撤退に追いこんだ(玉壁の戦い)。孝寛は驃騎大将軍・開府儀同三司の位を受け、爵位を建忠郡公に進めた。553年廃帝2年)、雍州刺史となった。道の1里ごとの路側に1本の槐の木を植える事業をおこない、旅人が休息するための日陰を作った。

554年恭帝元年)、大将軍として燕国公于謹とともに南朝梁江陵を攻撃した。江陵を陥落させると、功績により穣県公に封じられた。長安に凱旋すると、尚書右僕射に任じられ、宇文氏の姓を賜った。556年(恭帝3年)、宇文泰が北巡すると、孝寛はその命を受けて再び玉壁に駐屯した。557年孝閔帝元年)、北周の孝閔帝が即位すると、孝寛は小司徒に任じられた。明帝初年、麟趾殿学士となり、図籍の校定にあたった。

561年保定元年)、玉壁に勲州が置かれると、孝寛は勲州刺史に任じられた。563年(保定3年)、北斉の使者が玉壁を訪れて、互市を通じることを求めてきた。宇文護は長年のあいだ対峙してきた北斉が唐突に交易を求めてきたことに、別の理由があるものと疑った。また皇第四姑や宇文護の母の閻氏が北斉にいたことから、請和の際にはその身柄の返還を条件としたいと考えた。そこで宇文護は司門下大夫の尹公正を玉壁に送って、孝寛と協議させた。孝寛は玉壁の郊外に天幕を設置して、尹公正に使者を応接させ、北周の皇族を北斉が返還する気があるかを訊ねさせたところ、使者は前向きな態度であった。孝寛は東帰を望む汾州胡を北斉に送り、善隣を望む北周朝廷の親書を届けさせた。564年(保定4年)、北斉は皇姑と宇文護の母らの身柄を送ってきた。

ときに孝寛は北斉に間諜を入れて、北斉の動静を探らせていた。主帥の許盆という者がおり、孝寛が信頼して戍ひとつを守らせていたが、許盆が北斉につくと、孝寛は怒って、諜者を入れて許盆を捕らえさせ、斬首した。また孝寛は汾州の北で離石より南の生胡が居住する土地が北斉の勢力圏に入ることを懸念し、河西から役徒10万および甲士100人を動員して、開府の姚岳の監督の下で大城を築かせた。北斉はこの城を見て、大軍の集結を疑い、この地に手出しをしなくなった。閏月、孝寛は柱国の位に進んだ。ときに宇文護が東征を望んだ。孝寛は長史の辛道憲を派遣して反対論を述べたが、宇文護は聞き入れなかった。はたして北周の東征軍は北斉に敗れて帰還した。

569年天和4年)、孔城が陥落し、宜陽が包囲を受けた。孝寛は宜陽をめぐって両国の紛争が続くことを懸念し、華谷と長秋に城を築いて、北斉の意図をくじこうとした。しかし宇文護が長史の叱羅協を派遣して反対したため、築城を断念した。570年(天和5年)、孝寛の爵位は?国公に進んだ。この年、北斉軍が宜陽の包囲を解き、汾水の北を攻略して、この地に築城した。北斉の丞相の斛律光が汾水の東にやってきて、孝寛と会見して応酬した。孝寛は参軍の曲巌に「百升は上天を飛び、明月は長安を照らす」という歌を作らせた。単位の1は100であり、明月は斛律光の字であった。また「高山は推さずして自ら崩れ、槲樹は扶けずして自ら竪つ」と言わせた。北斉の国姓であった。これらの文は諜者を通じて北斉の都の?にもたらされた。祖?らはこれらをさらに潤色して斛律光の謀反を言い立てた。571年(天和6年)、斛律光は北斉で処刑された。

建徳年間に入って、武帝は北斉を征服したいと望むようになった。そこで孝寛は3つの策を武帝に上疏した。


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