鞆町
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この項目では、福山市の地区および広島県にかつて存在した自治体について説明しています。福山市の沼隈半島にある景勝地についてはについては「鞆の浦」をご覧ください。

ともちょう
鞆町
廃止日1956年9月30日
廃止理由編入合併
鞆町・水呑町・赤坂村・熊野村・瀬戸村・津之郷村→福山市
現在の自治体福山市
廃止時点のデータ
日本
地方中国地方山陽地方
中国・四国地方
都道府県広島県
沼隈郡
市町村コードなし
面積5.40km2
総人口17,219[1]
(1956年9月30日)
隣接自治体沼隈郡沼隈町・水呑町
町の木-
町の花-
他のシンボル-
鞆町役場
所在地〒当時はなし
広島県広島県沼隈郡鞆町鞆
外部リンク存在せず
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1939年当時の鞆町の中心部を描いた切手

鞆町(ともちょう)は、広島県沼隈郡にあったである[2]。1956年に福山市に編入された。観光地として鞆の浦が有名[3]目次

1 歴史

1.1 近世

1.2 近代

1.3 沿革


2 行政

3 地理

3.1 島嶼

3.2 交通


4 電気

5 名所・旧跡

5.1 社寺

5.2 名所・史跡等

5.3 祭事・催事

5.4 名産品


6 施設

6.1 学校

6.2 公共機関


7 出身有名人

8 出典・脚注

歴史
近世

鞆の浦は古代より瀬戸内海の潮待ちの港として繁栄しており、江戸時代の備後福山藩の領内では城下町の福山に次いで規模を持つ町であった。この時代には人口5000 - 7000人を抱える備後福山藩最大の商都であった[4]

江戸時代後期には航海技術の進歩や陸上交通へのアクセス性などから備後地方の港湾拠点の中心は広島藩領の尾道へと移っていったが、福山藩内では最大の港として独自の地位を保っていた。
近代

明治時代になると交通手段の近代化に伴い拠点性を失うことになった。これは海運が船舶の動力化により潮待ちを必要としなくなったうえに大型船舶が入港できないこと、また立地が沼隈半島の先端にあり、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が通ることもないため、陸海の交通路から外れることになった。そのうえ開発可能な平野部に乏しかったことから、大規模な工業が発展せず[5]、かつての繁栄を失うこととなった。1913年(大正2年)鞆軽便鉄道が開通し、利便性は向上したものの、鞆港の地位低下と、鞆側のターミナルであった鞆駅が市街地北側にあったため、業績は芳しくなかった。なお鞆への鉄道は第二次大戦後[6]までは利用客も多かったが、戦後台頭してきた自社のバスに客足を奪われ採算悪化を理由に廃止された。

明治期に尾道は近代的港湾として大発展を遂げ広島県では広島市に次ぎ備後地方で最大の都市となるが、鞆町は近代化の波から取り残されていった。それでも当時の鞆は依然として備後地方では有力な都市のひとつであり、1889年(明治22年)の市町村制施行では沼隈郡鞆町となり郡役所が置かれた。

昭和初期には、尾道市や順調な発展を遂げる福山市から完全に取り残され、1942年(昭和17年)には周囲の田尻村、走島村と合併し町域が拡大するが、沼隈半島の中心地としての地位に留まるのみとなった。またかつては沼隈半島の中心地であったが、隣の沼隈町にある常石造船が戦後大発展を遂げたため、その地位すら失うことになった。そのため広島県の強力な市町村合併政策により、1956年(昭和31年)福山市に編入され、福山市鞆地区となった[7]

現在では鞆港への商船の出入りは殆ど無く、連絡船、観光船、港内の造船所(本瓦造船)への修理船の入港を除けば、ほぼ漁港として利用されるのみである。しかし、こうしたことが開発の波に飲み込まれることなく、古寺が数多く点在する古い街並みをとどめる要因にもなった。

2017年11月28日に鞆町伝統的建造物群保存地区が国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された[8]
沿革

1889年4月1日 - 市町村制施行され、沼隈郡鞆村・後地村の地域をもって同郡鞆町(旧)となる。

1898年10月1日 - 沼隈郡役所が鞆町鞆に置かれる。

1942年7月1日 - 鞆町(旧)および田尻・走島両村が対等合併し、鞆町(新)を新設する。

1956年9月30日 - 鞆町が他町村とともに福山市に編入される。

行政

町長 : 門田久松 - 1955年6月の町長選挙で選出

地理
島嶼

仙酔島


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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