鞆城
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広島県
港からの遠景
城郭構造平山城
天守構造不明(3層3階との伝承あり)
築城主毛利元就
築城年天文年間
主な改修者毛利輝元福島正則
主な城主毛利氏足利義昭福島氏
廃城年元和元年(1615年
遺構石垣
指定文化財福山市指定史跡
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分03.5秒 東経133度22分55.4秒 / 北緯34.384306度 東経133.382056度 / 34.384306; 133.382056
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鞆城(ともじょう)は、備後国(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城。福山市指定史跡に指定されている[1]
概略

は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地であった。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていたが、市街部に城は存在しなかった。なお、建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地であった。

鞆城の前身となるのが天文22年(1553年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏[2]が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害である。鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されている。天正4年(1576年)には京都を追われた足利義昭が毛利氏の庇護の下、この鞆要害で亡命政権(いわゆる「鞆幕府」)を樹立した。幕府としての実態は伴っていなかったというのが定説ではあるものの、藤田達生は義昭が鞆にありながらも歴代将軍と同様に一貫して京都五山をはじめとする幕府管轄下にある禅宗寺院に対して住持任命の辞令である公帖を発給していた事実などを挙げて「室町幕府の身分秩序や武家儀礼は形骸化しつつも、大名権力とは異なる上級政治勢力として存続」していたとしている(「歴史」参照)。

江戸時代に入ると安芸備後を与えられた福島正則により鞆要害の築城が開始され、鞆城と呼ばれるようになった。鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。築城は慶長14年(1609年)まで続けられたが、瀬戸内海の中央で戦略的にも枢要な鞆において大きな築城は徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、福島氏の移封後はその後、西国鎮衛の役目で備後福山に配された水野勝成により福山藩が誕生し、鞆城跡には鞆奉行所が置かれた。
歴史本丸(奥に鞆の浦歴史民俗資料館鞆城跡の航空写真。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成中央の丘陵部が本丸跡。

鞆城築城以前には鞆市街に城はなく、南北朝時代には鞆の津(現在の鞆港)に隣接する島に築かれた大可島城がその前身といえる役割を果たしていた。

康永元年(1342年)に燧灘で勃発した合戦では、鞆も戦場(鞆合戦)となり、大可島城に篭城していた南朝方の将兵達は、北朝方の攻撃により全滅したという。

観応の擾乱では、貞和5年(1349年)に足利直義派の足利直冬中国探題として大可島城に滞在したが、幕府の討伐軍に攻められ九州に敗走した。

戦国時代になると備後地方は大内氏の勢力下となり、天文13年(1544年)に鞆の浦は村上水軍村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され、村上氏の本拠は大可島城に置かれた。このため亮康は「鞆殿」と呼ばれた。

元亀4年(1573年)に織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が、毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しており(いわゆる「鞆幕府」)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ義昭の居館があったとされている。義昭の警護は一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康があたっていたという。

天正6年(1578年)になると毛利氏は、信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には、山中幸盛の首級が鞆に運ばれ、義昭と毛利輝元が共に実見を行ったと伝えられる。義昭は6年間鞆に留まり、天正10年(1582年)に津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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