鞆の浦
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この項目では、福山市鞆地区にある景勝地について説明しています。

福山市の鞆地区および広島県にかつてあった自治体については「鞆町」をご覧ください。

島根県大田市の地域・世界遺産構成資産については「鞆ヶ浦」をご覧ください。

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度22分51.173秒 東経133度22分46.878秒 / 北緯34.38088139度 東経133.37968833度 / 34.38088139; 133.37968833 (鞆の浦)医王寺太子殿から望む鞆の浦地図瀬戸内海国立公園の指定時に発行された記念郵便切手(1939年)

鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域備後灘)である。
概要

現在は鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も「鞆の浦」と呼ぶことも多いが、本来「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味であり鞆港を中心とした備後灘に属する海域のことである。

沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として、1925年に国の名勝および国立公園に指定されている。また、1934年3月16日に国立公園として初の[1]瀬戸内海国立公園に指定された。そのため、国立公園指定当時の記念切手や絵葉書には、鞆の風景が描かれているものがある。なお、鞆の浦に含まれる島には仙酔島、つつじ島、皇后島、弁天島、玉津島、津軽島がある。

瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、古代より「潮待ちの港」として知られていた。また、鞆は魏志倭人伝に書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている。

鞆の浦の港町である鞆には古い町並みが残り、1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれた。また、1927年に日本二十五勝の海岸景勝地として、「鞆の浦・屋島若狭高浜」が選ばれた。江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみである。江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路もほぼ全て現存し、当時の町絵図が現代の地図としても通用する。そのような町は港町に限らず、全国でも鞆の浦以外には例がない[2]

古くから映画テレビドラマロケが行われ[3]、特に2008年公開された『崖の上のポニョ』で、宮崎駿監督が構想を練った地として有名になり、映像作品のロケが増えている[4][5][6][7]

2017年11月には「福山市鞆町伝統的建造物群保存地区」の名称で8.6ヘクタールの区域が重要伝統的建造物群保存地区として選定された[8]

2018年5月には日本遺産に認定された。

一帯は2018年(平成30年)11月14日にみなとオアシスの登録をしていて、福山市営渡船場を代表施設とするみなとオアシス潮待ちの港鞆の浦として観光・交流拠点ともなっている。
歴史
古代

「吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき(大伴旅人)」や「鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも (大伴旅人)」等、759年に編纂された万葉集には鞆の浦を詠んだ歌が八首残されている。それ以前の鞆の成り立ちがどのようなものであったかは、はっきりしないが、遺跡の分布状況などから、弥生時代にはすでにある程度の集落が成立していた可能性が高いと考えられている。

平安時代初期には鞆近郊に静観寺、医王寺が創建され、備後国南部における布教の拠点となった。京都の八坂神社の本社である沼名前神社は平安時代の法令「延喜式」にも記載されている。これらを含め江戸時代までに狭い町並みに由緒ある寺が19か寺・神社大小あわせ数十社も建ち並んでおり、その繁栄ぶりが窺える。
中世

一帯は渡辺氏の支配下にあった。

1336年建武3年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中この地で光厳上皇より新田義貞追討の院宣を賜る。南北朝時代には鞆の浦沖から鞆にかけての地域で北朝南朝との合戦(鞆合戦)が幾度もあり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われた。

戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど備後国の拠点の一つとなっていた。

1573年、室町幕府15代将軍足利義昭織田信長により京を追放されたのち、毛利氏などの支援のもと渡辺氏の援助で1576年に鞆に拠点を移し、信長打倒の機会を窺った。伊勢氏上野氏大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り、鞆に下向していたとされる。このことから、「鞆幕府」と呼ばれることもある[9]。また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家・頼山陽は“足利(室町幕府)は鞆で興り、鞆で滅びた”と喩えた。

尼子氏滅亡に際しては播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ足利義昭や毛利輝元により実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている。
近世

江戸時代になると備後国を領有した福島正則によって鞆要害を中心に市街地を取り囲む大規模な城郭「鞆城」の築城が始まるが、これが徳川家康の逆鱗に触れ工事は中止された。その後、福島氏に代わり、徳川家康の従弟水野勝成備後福山藩の領主となり、鞆城跡には奉行所(鞆奉行所)が設置された。このとき勝成の息子で2代藩主である水野勝俊は鞆に住んでいたため「鞆殿」と呼ばれた。また、朝鮮通信使の寄航地にも度々指定され、1711年(正徳元年)の第8回通信使では従事官の李邦彦が宿泊した福禅寺から見た鞆の浦の景色を「日東第一形勝」(朝鮮より東の世界で一番風光明媚な場所の意)と賞賛した(この文を額にしたものが福禅寺対潮楼内に掲げられている)。1814年(文化11年)頼山陽は滞在していた大坂屋の門楼を「対仙酔楼」と名付け、書を残した。「対仙酔楼記」では窓からの景色を「山紫水明処」と描写し、熟語の語源となったとされてい歴史と鞆ー福山市ホームページ。

しかし、航海技術が発達し「地乗り」から「沖乗り」が主流になったことにより鞆の浦で潮待ちをする必要性は薄れていったことなどから、備後地方の港湾拠点は尾道に大きく傾いていった。
近代

近代になると鞆の浦の拠点性はますます低下していき、1913年大正3年)の鞆軽便鉄道開通により陸上交通の利便性は向上したものの、半島の先端という孤立した環境や開発可能な平野部が少ないことなどから近代化の波に取り残された。鞆軽便鉄道(鞆鉄道)の利用も太平洋戦争直後をピークに減少し1954年昭和29年)には採算悪化などから廃止された。この鉄道跡が概ね県道22号線福山鞆線である。


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