満洲の歴史
箕子朝鮮東胡?貊
沃沮粛慎
燕遼西郡遼東郡
秦遼西郡遼東郡
前漢遼西郡遼東郡衛氏朝鮮匈奴
漢四郡夫余
後漢遼西郡烏桓鮮卑?婁
遼東郡高句麗
玄菟郡
魏昌黎郡公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋平州
慕容部宇文部
前燕平州
前秦平州
後燕平州
北燕
北魏営州契丹庫莫奚室韋
東魏営州勿吉
北斉営州
北周営州
隋柳城郡靺鞨
靺鞨(まっかつ、?音:Mohe)は、中国の隋唐時代に中国東北部・沿海州に存在したツングース系農耕漁労民族[1]。南北朝時代における「勿吉(もっきつ)」の表記が変化したものであり、粛慎・?婁の末裔である。16部あったが、後に高句麗遺民と共に渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝・清朝を建国した北の黒水部の2つが主要な部族であった。
構成部族勿吉七部(靺鞨七部)の民族系統。勿吉七部(靺鞨七部)の粟末靺鞨の系統が渤海国に発展し、勿吉七部(靺鞨七部)の黒水靺鞨の系統が金に発展している。
靺鞨は、いくつかの大部族に分かれ、そのうち粟末靺鞨、伯咄靺鞨、安車骨靺鞨、払涅靺鞨、号室靺鞨、白山靺鞨、黒水靺鞨の七部族が有力で、靺鞨七部と呼ばれた[2]。 開皇(581年 - 600年)の初め、靺鞨は隋に遣使を送って貢献した。 煬帝(在位:604年 - 618年)の高句麗遠征(612年・613年)の時、渠帥の突地稽はその部を率いて隋に降った。そのため右光禄大夫に拝され、柳城に住まわせてもらう。突地稽は中国の風俗を気に入り、冠帯することを請うた。煬帝はこれを喜び、錦綺を賜って突地稽を褒寵した。 遼東の役において、突地稽はその部衆を率いて従軍し、戦功があった[3]。 武徳(618年 - 626年)の初め、突地稽は遣使を送って朝貢をしたため、唐はその部落をもって燕州を置き、突地稽を総管とした。 劉黒闥の叛乱において、突地稽は所部を率いて定州に赴き、遣使を送って太宗に詣でて節度を受けることを請い、戦功をもって蓍国公に封ぜられた。また、その部落を幽州の昌平城に遷す。 高開道が突厥を招き寄せて幽州に来攻した際、突地稽は兵を率いて迎撃し、これを大破した。 貞観(627年 - 649年)の初め、突地稽は右衛将軍に拝され、唐の国姓である李氏を賜った。突地稽が死ぬと、子の李謹行が後を継いだ。 麟徳2年(665年)、李謹行は営州都督となる。その部落は数千人にのぼり、財力もあったことから夷人たちに憚られるようになる。のちに李謹行は右領軍大将軍を拝命、積石道経略大使となる。 吐蕃の論欽陵らが10万を率いて湟中に入寇して来た時、李謹行の兵士は準備をしていなかったが、吐蕃軍が来るのを聞くと、旗を建てて鼓を打ち鳴らし、開門してこれを待った。すると、吐蕃軍は伏兵があると思ってそれ以上進めなかった。 上元3年(676年)、李謹行は吐蕃軍数万を青海で破ったため、鎮軍大将軍・行右衛大将軍を拝命し、燕国公に封ぜられる。 永淳2年(683年)、李謹行が死ぬと、唐は彼に幽州都督を贈り、乾陵に陪葬してやった。その後も靺鞨は遣使を送って朝貢し続けた。 一方、白山部はもともと高句麗に附いていたが、唐が高句麗を滅ぼすと(668年)、唐に降った。また、伯咄部・安車骨部・号室部などは高句麗が滅亡すると、微弱となって分散し、渤海国に流れた。ただ黒水部は強盛であり、16部に分かれていた[4]。
粟末部…高句麗と隣接し、勝兵は数千。
伯咄部…粟末部の北に住み、勝兵は7千。
安車骨部(安居骨部、鉄利部)…伯咄部の東北に住む。
拂涅部…伯咄部の東に住む。
号室部(越喜部)…拂涅部の東に住む。
黒水部…安車骨部の西北に住む。
白山部…粟末部の東南に住む。勝兵は約3千。
思慕部…黒水の西北に住む。
郡利部…思慕部の北に住む。
窟設部…郡利部の東北に住む。
莫曳皆部…窟設部の東南に住む。
虞婁部
歴史6世紀頃の中国大陸東北部7世紀後半、唐の羈縻(きび)支配期8世紀、9世紀頃
隋代
唐代