革新官僚(かくしんかんりょう)とは、革新派の政策を推進した官僚たちの呼称である。
特に1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して企画院に改編された際、同院を拠点として戦時統制経済の実現を図った官僚層のことをさす。のちに国家総動員法などの総動員計画の作成に当たった。
概説岸信介。革新官僚の代表格とされる。
「新官僚」は、1920年代に現れた疑似右翼的な官僚層を指して使われた語で、のちの新々官僚と区別し、新官僚を「革新官僚」とも呼ぶようになった[注釈 1]。「統制派」および「社会大衆党」も参照
を実現してから注目されるようになった。星野直樹企画院総裁、岸信介商工次官ら満洲で経済統制の実績を挙げていた高級官僚、および美濃部洋次、毛里英於菟(ひでおと)、迫水久常らの中堅官僚が知られる。モデルはソ連の計画経済であり、秘密裡にはマルクス主義が研究されていた。現に革新官僚たちはソ連の五カ年計画方式を導入した(第7回コミンテルン世界大会と人民戦線も参照)。革新的・社会主義的な立案を行ったため、「共産主義」として小林一三らの財界人や平沼騏一郎ら右翼勢力から強い反発を受け、1941年に企画院事件を生じた。その特徴は、第一次世界大戦後のグローバルな政治・経済・社会の変化から強い刺激を受け、自分たちが「世界史的大変動」の中に位置しているというイメージで事態を理解しようとしたことにある。世界の構造を分析するための方法論としてマルクス主義から影響を受けた。 齋藤實内閣が帝人事件で総辞職すると、最後の元老である西園寺公望は後継首班の決定を首相経験者、枢密院議長、内大臣とで構成する重臣会議で決定し、奉答することにした。7月3日の齋藤の辞表提出後、重臣会議の推薦によって岡田啓介海軍大臣が組閣することになる。岡田内閣は当時の二大政党であった政友会と民政党に協力を求め、両党から5名の入閣があった。しかし、途中で政友会が入閣を拒絶し、入閣した逓信大臣の床次竹二郎、農林大臣の山崎達之輔、鉄道大臣の内田信也は政友会から除名されてしまった。斎藤内閣に比べて岡田内閣の政党出身の閣僚の地位は低く、政友会との関係も悪く、政党勢力は後退したといえる。 これに代わって勢力を伸張したのが官僚であった。特に斎藤内閣の農相として活躍し、新官僚の代表的存在とされていた後藤文夫が内務大臣になったことは、その象徴であった。岡田内閣は基盤強化のため、内閣審議会と内閣調査局を設置した。この内閣調査局の局長には、新官僚のリーダー格とされていた吉田茂(内務官僚)が任命され、調査官の中には陸軍大佐の鈴木貞一、逓信省出身の奥村喜和男、農林省出身の和田博雄など革新官僚の姿もあった。 ※が記されている人物はいずれも企画院事件、または満鉄調査部事件で治安維持法違反の容疑で検挙されている。body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}
政党の後退と官僚の進出
主要な人物
企画院官僚
井口東輔
稲葉秀三 ※
植村甲午郎
大原豊
岡倉古志郎 ※
奥山貞二郎 ※
小沢正元 ※
勝間田清一 ※
川崎巳三郎 ※
佐多忠隆 ※
沢井武保 ※
芝寛 ※
鈴木貞一
竹本孫一
玉城肇 ※
直井武夫 ※
正木千冬 ※
美濃口時次郎
八木沢善次 ※
和田耕作 ※
陸軍官僚
秋永月三
岩畔豪雄
永田鉄山(統制派)
花野吉平[1]
海軍官僚
阿部嘉輔
商工官僚
岸信介
美濃部洋次
椎名悦三郎
吉野信次
帆足計