革命的共産主義者同盟_(フランス)
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フランス共和国の政党革命的共産主義者同盟
Ligue communiste revolutionnaire
成立年月日1974年
解散年月日2009年2月5日
後継政党反資本主義新党
本部所在地2, rue Richard-Lenoir, 93100 モントルイユ
政治的思想・立場極左共産主義トロツキズム
公式サイト ⇒[1]
国際組織第四インターナショナル
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革命的共産主義者同盟(かくめいてききょうさんしゅぎしゃどうめい、フランス語:Ligue communiste revolutionnaire 、略称:LCR)は、かつて存在したフランストロツキスト政党。フランス政界においては、(フランス社会党フランス共産党などの既成左翼政党との関係において)「極左政党」に分類される。国際的なトロツキスト運動の一潮流である第四インターナショナル統一書記局派のフランス支部でもあり、最大勢力。統一戦線の形成と大衆運動に力量を割く運動スタイルに特徴がある。

2000年代には、「反新自由主義・反グローバリズム」を強く打ち出し、「トロツキスト政党」であることから脱却した「反資本主義」を一致点とする大衆政党の建設を掲げ、2009年2月5日に解散総会を開催して、社会党や共産党、労働者の闘争などの諸党派から離脱したグループや個人、それまで非党派であった労働運動市民運動の活動家を糾合した反資本主義新党(NPA)に移行した。

主な指導者:ピエール・フランク、アラン・クリヴィンヌ、ピエール・ルッセ、オリヴィエ・ブザンスノ(ブザンスノー)

機関紙:『ROUGE』(週刊 2009年のLCR解党とともに廃刊)

青年組織:革命的共産主義者青年-Jeunesses Communistes Revolutionnaires(JCR)機関紙『RED』

目次

1 歴史

2 近年の活動

2.1 2007年大統領選の闘い

2.2 LCR解散、そして反資本主義新党の結成


3 LCR各大統領選の記録

4 関連項目

5 外部リンク

5.1 映像で観るLCRの歴史


歴史

ソ連共産党内のヨシフ・スターリン派とレフ・トロツキー派の対立とトロツキー派の追放を背景に、フランス共産党でも追放された「左翼反対派」が、1930年に共産主義者同盟を結成する。共産主義者同盟は1933年に、トロツキーが提案した「加入戦術」をフランス社会党に対して実行し、ボルシェヴィキレーニン主義グループの形成から青年組織として革命的社会主義青年同盟を結成する。この時期のフランス・トロツキストは、スターリンの提唱した「社会ファシズム論」によって、ファシズムの脅威よりも社会党への打撃を優先するフランス共産党を批判して、「反ファシズム労働者統一戦線」を呼びかけた。しかし、「加入戦術」の是非をめぐって共産主義者同盟は分裂、1944年に国際主義共産党(PCI)として再統一される。フランス・トロツキストは、ナチ占領下において独自のレジスタンス活動を展開したが、ナチスの他にフランス共産党の武装勢力に襲撃され、暗殺されることもあった。

戦後、50年代に再び「加入戦術」が提起され、1952年に「加入戦術」に反対する「ランベール派」(のちに国際組織として「国際共産主義組織-OCI」を形成。後にフランスの首相となるリオネル・ジョスパンが一時期所属した。現在のフランス労働党)が国際主義共産党から脱退。PCIは、フランス共産党の青年組織である共産主義学生連合(UEC)に「加入戦術」を行い、革命的共産主義青年(JCR)が形成される。JCRは、とりわけ68年パリ五月革命における「バリケード街頭戦」において組織的に先頭に立つことで名を馳せ、JCR指導者のアラン・クリヴィンヌとピエール・ルッセは指名手配された。この五月革命における「役割」によって、PCIとJCRは1969年6月にフランス政府より解散命令を受ける。JCRとPCIは正式に合同する形で、共産主義者同盟(LC)が結成され、同年アラン=クリヴィンヌはLCの候補としてフランス大統領選挙に立候補した。

1973年6月21日、労働者ストライキ左派勢力への襲撃を繰り返してきたファシスト組織:オルドル・ヌーヴォー-Ordre Nouveauの政治集会に対して、LCはヘルメット、鉄パイプ、チェーン、火炎瓶などで武装して大規模な武装襲撃を展開した。集会会場に対して直接攻撃する大部隊のほかに、五人一組のグループをパリの各所に配置して、集会に向かうオルドル・ヌーヴォーの活動家を襲撃するなど、大乱闘を繰り広げた。この「反ファシスト闘争」によって、LCは同年6月にオルドル・ヌーヴォーとともに再び当局より組織解散を命じられる。この組織解散命令に対しては、LCを「トロツキスト挑発者」と非難してきたフランス共産党や共産党影響下の労組ナショナルセンターのCGT、フランス社会党、ジャン・ポール・サルトルなどが一致して抗議行動を行った(集会の壇上で共産党の古参幹部のジャック・デュクロは「共産党の名において(解散命令に抗議する)」と演説して喝采を浴びた)。LCは形式上解散、即座に革命的共産主義者戦線(FCR)を結成し、1974年に再びアラン・クリヴィンヌを大統領候補に擁立する。

1974年5月には「軍服を着ていても君はやはり労働者だ!」をスローガンに徴兵された兵士たちの一連の社会的、民主的要求を取り上げた「百人のアピール」を兵舎内で配布、たちまち数千人の兵士たちの賛同署名を集めた。まもなく、何十もの兵士委員会が組織され、兵士たちの「軍服デモ」を組織する。

FCRは、1974年12月に革命的共産主義者同盟(LCR)に改組された。LCRは70年代、ラルザックNATO軍事基地拡張反対運動(ミッテラン社会党政権の誕生により建設は中止された)にとりわけ力を注いだ。
近年の活動 政府の「民営化」政策に反対するLCRのデモ隊列

LCRは1999年6月に行われた欧州議会選挙で「労働者の闘争」(LO)と選挙ブロックを組んで5名を当選させ、LCRからはアラン・クリヴィンヌとロズリーヌ・ヴァシェッタが選ばれた。

LCRは2000年代に入って、「新自由主義反対」を強く打ち出し、新自由主義への反対を一致点にした「反資本主義左翼統一戦線」の形成を訴えるようになる。大衆運動においては、郵便・国鉄・電信分野の労働組合運動や失業者運動などに一定の影響力をもち、また、反グローバリゼーション運動へ意識的に参画し、ATTACなどの市民団体にも一定の影響力を有した。LCR独自の運動としての「反MEDEF(フランス経団連)・民営化反対キャンペーン」にも力を注いだ。

LCRは2002年フランス大統領選挙において、当時27歳の郵便局員で労組活動家だったオリヴィエ・ブザンスノを公認候補に擁立し、初めてフランス共産党の候補を上回る4.24%の得票を獲得した。18?24歳までの青年層の間では、ブザンスノ候補の得票率は16人の大統領候補中、シラクの15.7%に次ぐ第2位の13.9%で、左翼諸政党の中では第一位であった。

大統領選は極右国民戦線ジャン=マリー・ルペンジャック・シラクの決選投票となり、LCRは「今日は反ルペンの投票を!明日から反シラクを闘おう!」という立場から、「反ルペン」の投票と「反極右=反ファシズム大規模街頭行動」を呼びかけた。第一次投票直後からルペンに反対する大規模な街頭デモが高校生の無届デモを皮切りにフランス各地で起こっており、フランス全土でのべ200万人が参加した。LCRはこれらのデモに積極的に関与し、この大統領選挙運動と「反極右街頭行動」の過程でLCRは新たに2000名以上の新規加入者を獲得した。

2005年、LCRはEU憲法批准の是非を問う国民投票に際して、反新自由主義の立場から批准に反対する運動に尽力、社会党の多数派が「批准賛成」、共産党が「批准反対」を打ち出しつつも90年代のジャック・シラク大統領と社会党と「第三次保革共存(コアビタシオン)」時代に同党のゲソ運輸相が民営化を推進した経緯から(90年代の共産党指導部は「ゲソ同志を困らせるな」をスローガンにして反民営化運動を抑制した)、EU憲法批准反対の運動そのものには消極的だったこともあって、政党勢力としてはLCRは「批准反対」運動を主導する立場に立ち批准反対派の勝利に貢献した。
2007年大統領選の闘い オリヴィエ・ブザンスノー 近影


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