革命作家芸術家協会
Association des ecrivains et artistes revolutionnaires略称AEAR
設立1932年
解散1939年
目的革命文学・プロレタリア文学運動
反ファシズム運動
本部文化の家 (フランス)
革命作家芸術家協会(Association des ecrivains et artistes revolutionnaires)は、1930年にソ連のハリコフで開催された会議(ハリコフ会議)で正式に結成された国際革命作家同盟のフランス支部として1932年3月に結成された革命文学・プロレタリア文学運動および反ファシズム運動の知識人団体。翌1933年7月に機関誌『コミューン』が創刊され、アンリ・バルビュス、ポール・ヴァイヤン=クーチュリエ(フランス語版)、アンドレ・ジッド、ロマン・ロランが編集委員、ポール・ニザン、ルイ・アラゴンが編集事務局を務めた。1935年に同協会の活動を受け継ぐ「文化の家(フランス語版)」が設立され、事務局長のアラゴンを中心に講演会、展覧会、反ファシズム作家・芸術家の討論会など多くの企画が行われた。1939年の独ソ不可侵条約締結後、ダラディエ内閣によって共産党・共産党系の活動が禁止されたため、この時点で事実上解散し、『コミューン』誌は終刊となった。 1927年11月に開催されたロシア革命10周年記念の会議において国際革命作家同盟の結成が発表された。この会議には、国際反戦・平和運動「クラルテ」を結成し、機関誌『クラルテ』を主宰していた作家アンリ・バルビュスと画家・インテリアデザイナーのフランシス・ジュールダン
歴史
前史
国際革命作家同盟が正式に発足したのは、1930年のハリコフ会議においてである。この会議には世界22か国の代表が参加し[2]、フランス代表は映画評論家のジョルジュ・サドゥール(フランス語版)と作家のルイ・アラゴンであった。二人とも文学・芸術革命を目指すシュルレアリスム運動(『シュルレアリスム革命』参照)に参加し、また、同じ1927年に共産党に入党していたが[3][4]、二人は同会議でシュルレアリスム運動、とりわけ、同1930年に刊行されたアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム第二宣言』に基づく方針による同運動からの離脱を要求された。ブルトンは『第二宣言』で唯物史観の立場を明確に打ち出したものの、無意識の探求など運動本来の目的を放棄したわけではなく、これは唯物論者からすれば観念論にすぎなかったからである[5]。
また、バルビュスが『クラルテ』誌の後続誌として1928年に創刊した『モンド(フランス語版)(世界)』誌も批判の的となった。バルビュスは『クラルテ』誌が編集委員のピエール・ナヴィルを中心にトロツキーの左翼反対派の活動を支持する方針を採ったために共産党に批判されて廃刊となったことから[6][7]、共産党から独立した文学、芸術、科学、経済、社会問題の総合雑誌として『モンド』誌を創刊したが[8]、今度はこのためにソ連の『世界革命文学』誌編集長のブルーノ・ヤセンスキー(ポーランド語版)に「イデオロギーの大バザール」、アラゴンにすら「譫妄の汚物」と批判された[5]。
一方、フランスにおいてプロレタリア文学運動の宣言『文学の新時代(Nouvelle age litteraire)』を発表し、運動の機関誌『新時代(Nouvelle age)』を創刊したアンリ・プーライユ(フランス語版)とこの運動もまた、「非ブルジョワ」を掲げながらも政治には一切関与しない活動であったために[9]、「階級闘争・革命による解決のないプロレタリア文学は服従・隷属を説く」ものであり、ファシズムであると批判された[5]。 革命作家芸術家協会は1932年3月17日に国際革命作家同盟のフランス支部として結成された。名誉会長はロシア・プロレタリア作家協会(RAPP、1925年結成)のレオポルド・アヴェルバフ
革命作家芸術家協会の結成
名誉会長・事務局