静御前
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この項目では、平安時代末期の白拍子について説明しています。その他の用法については「静御前 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2012年5月)
肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)時代祭での扮装

静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性白拍子。母は白拍子の磯禅師源義経
生涯

吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻った。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)[注 1]

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)[注 2]

と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。

この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じる[注 3]7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。

静の舞(鶴岡八幡宮)
2015年4月12日撮影

静の舞(藤沢市の白旗神社
2009年6月13日撮影

吾妻鏡における静御前

以下、『吾妻鏡』に静が登場する箇所の現代語訳。

文治元年11月6日(1185年12月15日)都落ちした義経の一行が九州へ渡るべく大物浜(尼崎市)から乗船するが、暴風雨によって難破し一行は離散。義経に従っていたのは源有綱堀景光武蔵坊弁慶並びに妾の静のみであった。

11月17日 義経が大和国吉野山に隠れているとの噂があるので、吉野山の執行(修行)僧兵によって捜索するも見つからなかったところ、夜10時頃、義経の妾の静が藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着く。その姿がいかにも怪しいので衆徒達はこれを見咎め、執行坊に連れてきて詳細を問う。静「私は九朗大夫判官の妾です。大物浜より豫州(義経)はこの山に来ました。5日間逗留しましたが、衆徒蜂起の噂を聞いて、伊豫守は山伏の姿を借りて逐電してしまいました。その時数多くの金銀類をわたくしに与え、雑色男たちを付けて京に送ろうとされました。しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峯雪の中に捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たのです。」

11月18日 静の証言によって義経を探すため、吉野の大衆はまた雪を踏み分け山を捜索する。吉野執行は静を大変気の毒に思い、充分労ってから鎌倉へ差し出すことになった。

12月8日 吉野の執行が静を京都にいる北条時政の屋敷に送る。義経を捜すための軍が吉野山に差し向けられる。

12月15日 北条時政から鎌倉へ送られた手紙より静の証言。「豫州が都を出て西海へ赴いた明け方、一緒に連れ立って大物浜に到着しました。それから船が難破し海を渡ることができませんでした。その夜は天王寺で宿泊し、豫州はそこから逃げて姿を隠しました。迎えを寄越すので一両日の間ここで待つように約束し、ただし約束の日を過ぎたらすぐさま立ち去るように言われました。しばらく待っていると、馬を送ってきたのでこれに乗り、どこへ行くかわからないまま三日目に吉野山に着きました。そこで五日間逗留し、それを最後にお別れしました。その後の行方は知りません。私は深山の雪を凌ぎ、やっとのことで蔵王堂に着いたところ、吉野執行に捕らえられました。」

12月16日 静を鎌倉へ召し出すよう時政に返書が送られる。

文治二年1月29日 義経の行方未だに分からず。さらに問いただしたいことがあるので、静を差し出すように北条時政に伝えられる。

2月13日 鎌倉に京都の時政から静を送る旨の返事が届く。

3月1日 静、母の磯禅師と共に鎌倉に到着。安達清常の屋敷に入る。

3月6日 すでに京都で時政に調べられたが、はなはだ信用できないとして再び問注所の役人に義経の行方を問われる。静「吉野の山中ではなく、その僧坊である。しかし山の大衆蜂起の事を聞いて、そこから(義経は)山伏の姿になり、大峰に入ると言って僧に送られて山に入りました。自分もまた跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったが、その僧に女人は大峰に入るべからずと叱られたので、やむなく都の方へ向かった。ところが同行していた雑色達が財宝を奪って逃げてしまい、蔵王堂に迷い着きました。」重ねて僧の名を尋ねるとそれは忘れたと言う。およそ京都での申し立てと今の言葉といささか違っているし、大峰に入ったと言っているが、多武峯に向かったあと隠れたとの噂があるので、それらにきっと虚偽があるだろうから重ねて取り調べるよう命じられる。

3月22日 静再び子細を尋ねられるも、義経の行方は知らないというだけであった。義経の子を妊娠しているので出産ののち帰すとの沙汰。

4月8日 頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参拝。舞を行うよう控えの間から静を廻廊に召し出す。この事は以前から命じていたところ、病気のためと称して断ったり、わが身の不遇はあれこれ言うことはできないといえども、豫州(義経)の妾として晴れの場に出るのはすこぶる恥辱であると言って渋り続けていたが、政子が「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」としきりに頼朝に勧め、「八幡大菩薩に供えるのだから」と言って静を説得。別離からまだ日も浅く、気が塞いでいるので舞う気にならないとその場になっても固辞するのを、再三の命によって舞うことになった。(舞に関しては上記)

5月14日 工藤祐経梶原景茂千葉常秀・八田朝重・藤原邦通ら御家人たちが酒を持って静の宿所に向かい宴会を催す。磯禅師が舞を舞う。酒に酔った景茂から艶言を投げかけられ、静は大泣きして「豫州(義経)は鎌倉殿の御兄弟、私はその妾です。御家人の身分でどうして普通の男女の事のように思われるのか。豫州が落ちぶれなければ、あなたごときに対面する事さえできないはずなのに。ましてやそのような艶言などもってのほかです。」

5月27日 夜、頼朝の長女大姫の依頼により、南御堂に舞を納めて禄を給う。

7月29日(閏は2度目の7月)静男子を出産する。これは豫州(義経)の息子である。出産を待ってから京に帰すことになっていたので、今日まで留め置かれていた。その父は関東に背き謀反を企て逃亡した。その子が女子ならばすみやかに母に返されるが、男子であれば今は産着の中にあっても、将来に禍根を残す恐れがあるので、赤子のうちに命を絶つように決まっていた。よって今日、安達清常に由比ヶ浜に捨てるよう命じられる。これに先立ち清常が使いとして赤子を受け取ろうとした。静はまったくこれを出さず、(赤子を)衣にまとい抱き臥し、叫喚数刻に及ぶが、清常は厳しく催促する。磯禅師が恐縮し、赤子を取り上げて使いに渡した。この事は、政子が頼朝に嘆願し宥めたが叶わなかった。

9月16日 静母子帰洛。憐れんだ政子と大姫が多く重宝を賜う。

伝説

静に関して史料による記録が見られるのは、上記の『吾妻鏡』のみであり、同時代の都の貴族の日記などで静に関する記録は一切見られない。『吾妻鏡』は時の権力者で源氏から政権を奪った北条氏による編纂書であり、静の舞の場面は源氏政権の否定、北条氏(政子)礼賛という北条氏の立場に拠ったものである事から、北条氏の政治的立場による曲筆との見方もある(『吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰』参照)。また、史実から確認できる静以外の義経の妻妾は河越重頼の娘(正室・郷御前)と源氏の敵である平時忠の娘(蕨姫)しかいないが、北条氏と政治的に対立した比企氏の存在を否定的に描く『吾妻鏡』では、比企氏の外孫である重頼娘の存在感を消すための曲筆の手段として静御前の存在を利用したとする見方もある(『吾妻鏡』において義経の正室である重頼娘の記事は3か所のみである)[1]


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